[連載]悪女の履歴書

実子を溺愛し、継子を疎む母の闇――「連れ子殺人・人肉食事件」と現代の義家族

2013/07/01 21:00
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Photo by Glyn Lowe Photoworks from Flickr

(前編はこちら)

 天川ハツ(仮名32)が、義理の娘トラ(仮名17)を殺害してから7カ月後、戦争も終わった10月に不審に思った巡査の追及によって事件は発覚した。戦時中の食糧難による人喰い事件。その背景には、いくつかのキーワードが存在する。義理の関係、知的障がいと食糧難である。
 
 義理の親子による虐待は現在でもあり得る事例だろう。警察沙汰になるほどの幼児虐待の中には、内縁関係や、再婚による義理の関係が介在していることも多々見受けられる。その象徴的事件が平成16年の岸和田中学生虐待事件だ。実父と継母が当時中学3年の長男を餓死寸前まで虐待した事件である。長男は体重が24キロと餓死寸前で保護され、意識を回復したが知能は著しく低下してしまった。

 また今年4月には、長男と長女に対する暴行容疑で広島の27歳の母親が逮捕されたが、このケースも2人の子どもは夫の連れ子だった(ほかに2人の実子がいた)。

 ハツは自分の血のつながった子どもと、藤吉の連れ子を明確に差別していたと思われる。実子を溺愛し、連れ子を疎んじた。ハツは連れ子を奉公に出したが、実子は家に残した。藤吉との間の2児はまだ幼かったにしても、ハツの長女は奉公に出てもおかしくない年だったにもかかわらず。そんな家庭に、ハツと血のつながっていないトラが1人残された。役立たずで面倒ばかりかけるトラをハツは憎んだ。

 こうした関係に加え、さらなる不幸は、トラほどではないが藤吉・ハツ夫婦もまた知的障がい者だった可能性が極めて高いことだ。「白痴」「低能」など(今では差別用語として新聞では決して使われない言葉が乱用されるのも世相として興味深い)、資料を当たると夫婦ともに知的レベルは明らかに低いことが明記されている。こうした事情は、この事件が単なる継子殺害とは別の側面も浮かび上がらせる。

 もし時代が違えば、親子ともに福祉の手が差し伸べられるべき家族だった。が、当時は戦時中であり、本人たちも、行政もそうした意識は希薄だった。


 義理の間柄、知的障がい、無知――そこに加えて食糧難だ。継娘殺しの動機は単に「憎かったから」だけではない。血のつながりがない、しかも「白痴」で「役立たず」の夫の連れ子を殺すことで、念願の食糧さえ調達できる。血のつながった可愛い自分の子どもたちにお腹いっぱい食べさせられる――まことに身勝手ではあるが、しかし母親の切羽詰った心情も垣間見える。

 いくつもの不幸な事情が重なり合い、そして悲劇は起こった。もし夫婦に知的障がいがなければ、もし食糧不足の時代でなければ、もし少しでも福祉の目が行き届いていれば――。こんな不幸な事件は起こらなかっただろう。

 しかしこの人喰い事件は、その後も猟奇事件として大きく報道された形跡はない。当時の新聞を見ると、食糧難に関する記事が驚くほど多い。いや、食糧の確保のみが当時の最大の関心事であったことがわかる。食糧難での母子心中、元特攻が警察襲撃で食糧を奪う、東京から近郊農家のある千葉や埼玉への買出し列車に100万人が殺到、食糧を奪うために進駐軍荒らしの横行――。また、「自殺するなら大臣宅の玄関か、農家の軒先」などと書かれた記事もあるなど、多くの日本人が総出で食糧確保に血眼になり奔走していた時代だった。殺人もありふれていた。大陸や朝鮮半島からの引き揚げも人々の関心を引き、戦地での人肉食事件が世界的に問題になっていた激動の時代、継母による連れ子人肉食事件は歴史の闇に埋もれたままだ。

 昭和21年4月11日、ハツは前橋地方裁判所において精神鑑定で心神耗弱を認められ減刑され、懲役15年の実刑判決が下された。
(取材・文/神林広恵)

【参照】
「上毛新聞」昭和20年11月6日付
『日本猟奇・残酷事件簿』(合田一道、扶桑社)
『群馬県重要犯罪史』
『群馬県警察史』


最終更新:2019/05/21 18:55
『「幸せ」の戦後史』
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