『おちょやん』解説

『おちょやん』井川遥演じた「女優・高城百合子」の事実にびっくり! ドラマでは描けない悲劇の亡命

2021/04/10 14:30
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

亡命した岡田の悲惨なその後

 天外は、樺太経由でソ連の国境を超えるという杉本に、「樺太やったら寒いやろう」と特殊な靴(登山靴)とお金をあげたといいますね。

 しかし、この亡命は悲劇にしかなりませんでした。二人は、史実ではソ連の国境を越えた、まさにその日、国境警備隊に捕らえられ、樺太のアレクサンドロフスクに連行されます。ここでソ連秘密警察の前身である内務人民委員部なる組織……つまり、怪しい人間がいたら徹底的に拷問して「吐かせる」ための、日本の「特高」みたいな怖い組織に拘束されてしまいました。

 岡田と杉本は、ロシアのカリスマ演出家だったフセヴォロド・メイエルホリドという人物を敬愛しており、彼の教えを受けたいと言っていたのです。

 これは、彼らにとって最悪に働きます。時のソ連の最高権力者スターリンから、メイエルホリドは「国家に反抗的である」という理由で嫌われており、当局はメイエルホリドに「日本スパイ組織の手先」という架空の罪を被せて処罰しようとしているところだったのです。

 実にまずいタイミングでの亡命でした。


 岡田と杉本、とくに杉本には何日も眠ることが許されず、立たされたままで尋問され、「劇場にスターリンがきた時、テロを行う予定だった」などという調書をデッチあげられてしまうのです。長い間、公式情報では「杉本は監獄内で肺炎のために亡くなったといわれてきた」のに、実際は銃殺されていたことが1989年(平成元年)、はじめて明らかにされました。

 監獄で4年過ごした岡田にも取り調べが1年半続いたそうで、日本で特高から逃げ回る日々のほうがよほどマシだったということなんですね。日本国内では岡田と杉本のロシア亡命を「国境を越える恋」などと、ノンキに騒いでいたにもかかわらず、当人たちは文字通り死ぬ思いでソ連の地で苦しんでいたのでした。

 岡田は生き残り、第2次世界大戦時には病院での強制労働に従事。1940年代の終わりになって、ようやく亡命の目的だった演劇の勉強をモスクワ大学ですることができた……というのです。自分なら、こんなイヤな目にあったソ連からは一日も早く帰国したいなどと思うでしょうが、岡田はソ連の土にかじりついてでも居残りました。それが岡田の「女優魂」だったのでしょうか。

 その後の岡田嘉子ですが、1972年(昭和47年)に、34年ぶりに日本に一時里帰りしたそうです。この時、渋谷天外の楽屋に訪ねてきたそうですね(天外の2番目の妻・渋谷喜久栄の証言)。二人がどういう話をしたのかは、残念ながら伝えられていません。

 岡田はその後も日本には帰らず、モスクワで暮らし続け、1992年(平成4年)、亡くなりました。


堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2021/04/12 11:57
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