[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

韓国映画が描かないタブー「孤児輸出」の実態――『冬の小鳥』 では言及されなかった「養子縁組」をめぐる問題

2021/03/05 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

『冬の小鳥』 韓国の経済を潤わせたのは「孤児の輸出」だった?

 
 先述したように、孤児たちを養子として海外に送り始めたのは、朝鮮戦争の直後からである。中でも、韓国で海外養子縁組を斡旋する団体として現在も活動している「ホルト児童福祉会」の設立者、ハリー・ホルトが、1955年に8人の戦争孤児を引き取ったのが始まりだとされている。彼は戦後、街にあふれる孤児たちを韓国政府の代わりに救済したわけだが、次第にそれは一つの「産業」に変わっていった。

 その産業化を決定づけたのは、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権である。61年、クーデターに成功した朴政権が初めて成立させた法律が「孤児の養子縁組法」。この法律によって、海外に養子を送る際の手続きが格段に簡素化され、活発化する土台になったのだ。 
 
 朴政権の狙いは明白だ。当時、海外に養子を出すと、養子1人当たり5,000~1万ドル以上が斡旋料として韓国政府に支払われたのである。朴政権にとって、街にあふれる孤児の問題が解決できるだけでなく、ドルまで稼げるとは、これ以上ありがたいことはない。開発独裁を前面に出していた朴大統領に児童福祉の意識などあるわけもなく、多い時は1年で8,000人以上の子どもたちが海外に「輸出」された。60~70年代に韓国経済を潤わせた最大の輸出品は、カツラでもスニーカーでも車でもなく「子ども」であると、経済学者に皮肉られているように、この時代が礎となって「孤児の輸出大国」という汚名が誕生したのだ。 
 
 政府の統計を見ると、2016年までに海外に引き取られた養子の人数は延べ20万人にも上り、その半数以上がアメリカに渡っている。アメリカが圧倒的に多いのは、朴政権の政策はもちろんのこと、60年代以降のアメリカでの出生率の低下が問題となり、同時に人道的な孤児救済の運動が活発化した事情もあるようだが、建国以前からアメリカの支配下に置かれている(のと同然の)韓国の状況を考えれば、ドルを得られるアメリカが「輸出先」としてベストだと考えたのだろう。 
 
 さて、朴政権下で作られた養子縁組の法律は、子どもの人権を踏みにじる悪法だとして、養子に行った当事者たちの抗議と陳情によって12年、成立から50年ぶりに改正された。だが、いつでも本人のルーツを調べられるように産みの親の連絡先を明らかにするといった内容が中心で、諸外国に比べると、依然として海外縁組の審査や手続きが甘いといわれている。

 要するに、海外へ養子に行かせることそのものに対する問題意識が欠けているのだ。韓国国内での養子縁組は二の次で、なぜ海外養子縁組にばかり力を入れるのか? この問題について、多くの専門家が口をそろえるのが、韓国社会に根強く残っている儒教的「純血主義」である。  

 父系による「血のつながり」を何より重んじる韓国では、血のつながりのない子ども(=赤の他人)を養子に引き取ること自体、タブー視されてきた。純血ではないため「家門の血を汚す」というわけだ。この点について、血よりも「家」を重んじる日本では、養子縁組や里親制度を通して、養子を受け入れて家を継がせることに、韓国よりは柔軟だったといえよう。日本の「どこの馬の骨とも知れない」という言い回しは、韓国では「どこの種かも知らない」という表現に当たるが、この「種」という言葉に、韓国の父系中心の純血主義が端的かつ克明に表れている。 

韓国映画・ドラマーーわたしたちのおしゃべりの記録2014~2020