【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

宮内庁に「おれは芸者と結婚してもいいか」? 寛仁殿下、信子さまとご結婚前の“自由”ぶり

2025/05/17 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

サイゾーオンラインより】

2005年9月4日、岐阜開催の世界ローイング選手権での寛仁親王(写真:GettyImages)

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

目次

寛仁殿下のプロポーズは2回、7年間も空いたわけ
寛仁殿下の好みは「ファニーフェイス」
芸者遊びに入れ込み、宮内庁に「芸者と結婚してもいいか」?
成績優秀な兄・麻生太郎と勉強は好きでなかった信子さま
結婚生活は順調だった寛仁殿下そして信子さま

寛仁殿下のプロポーズは2回、7年間も空いたわけ

――前回は、先日のニッポン放送のラジオ番組(『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』)出演が話題となった彬子女王殿下、そして女王殿下のお父さまこと三笠宮寛仁親王のご結婚のエピソードをお話いただきました。 
 
堀江宏樹氏(以下、堀江) 昭和後期の感覚では、現在のアラサーに相当する男女は結婚していて当たり前だったようです。27歳の寛仁親王は、名実ともに独身貴族にして「恋多き男」だったようですが、殿下にとっては幼なじみともいえる麻生信子さんにプロポーズを敢行なさるんですね。いうまでもなく、信子さんは麻生太郎元首相の妹さんにあたる方です。しかし麻生家(麻生太賀吉・和子夫妻)は結婚に猛反対で、断られてしまったのでした。 
 
――なぜダメだったのでしょうか? 
 
堀江 作家・工藤美代子さんのご著書『悪童殿下』(幻冬舎)によると、信子さまには「心臓結滞の持病」があったとのこと。殿下のプロポーズが信子さま御本人というより、信子さまのご実家・麻生家のご両親に対して行われているように見えるのは、信子さまが当時、イギリスの花嫁学校に留学なさっていたからのようですね。すでに信子さまからご結婚への「同意」を得ていらっしゃったとは思いますが、ご両親が反対だったのですね 
 
――寛仁殿下はちょうど今から50年前(昭和50年・1975年)にラジオ「オールナイトニッポン」にご出演され、その時29歳でいらっしゃったはず。ということは、すでに麻生家を説得中だったわけですね。 
 
堀江 おそらくゆるやかな説得は続いていたのではないか、と。正式なプロポーズは2回目でOKが出たということになっていますが、1回目と2回目の間には7年間の月日がありました。番組の中で「なぜ結婚していないのか?」とリスナーから質問された殿下が、「これまでに結婚したいと思った女は五人いました」と答えられたのは話題になったそうですが、その5人目こそが信子さまだったのでしょう。

寛仁殿下の好みは「ファニーフェイス」

――どのような経緯を経て、お二人はご結婚まで漕ぎ着かれのでしょう? 
 
堀江 殿下いわく「義理の兄(相馬和胤氏)が間に入ってくれて、交渉再開となり」、「障害があるならそれでかまいません。私は、障害者福祉にずっと携わってきた人間で(略)私なら面倒を見ることができる。どうか安心してください」とまでの殿下の言葉に、ついに信子さまのご両親が折れたそうで、「そこまで殿下がおっしゃるなら」とついに認めてくださったそうです(工藤・前掲書)。 
 
 とはいえ、心臓の病はなかなか付き合っていくのが難しく、結婚後、帰宅した信子さまは「緊張感が抜けると、いたるところで倒れていました」とのこと。「子どもをうむこともドクターストップがあったりして大変でした」とも寛仁殿下は回想しておられますね。 
 
――しかし、若き日から信子さまは本当にお美しくいらっしゃいましたよね。 
 
堀江 殿下いわく、「僕は面食いじゃないよ」とのこと。「ファニーフェイス」の女性のほうがお好きだそうです。「カミさん(=信子さま)」を選んだのも「個人というより、あのご両親(=麻生太賀吉・和子夫妻)の魅力が大きかった」そうです……。 
しかし、殿下が学生時代から贔屓にしていた芸者さんなどもすべてが超美形だとか。 

芸者遊びに入れ込み、宮内庁に「芸者と結婚してもいいか」?

――学生時代から芸者さんと遊んでいらしたんですか!?
 
堀江 『皇族のひとりごと』という殿下のご著書にも、それはカミングアウトされていますね。ただ、「雇われママ」が多い銀座などにくらべ、芸者さんとのお座敷遊びは “学生割引”(=出世払い?)が効いて案外安くつくのだそうです(笑)。 

 最初は東京・柳橋。次に京都の祇園というところに行ってみよう、とのことで虎屋の創業家の男性の方が殿下の学習院の同級生だったので、二人して虎屋所有のフォルクスワーゲンに乗り込み、交代で運転しながら京都に向かったそうです。 

 しかーし、情報を掴んだ虎屋の社長夫人に先回りされ、行く手を阻まれ、「若造が祇園で遊ぼうとしちゃダメ!」と怒られたそうです。 しかし、その社長夫人の“顔”で、祇園のお茶屋に案内してもらえたそうですよ(笑)。(寛仁親王・工藤美代子『皇族の「公」と「私」』)。 
 
――殿下はともかく、同級生の方はママ同伴で祇園遊びってなかなかすごい光景ですね。 
 
堀江 殿下は芸者遊びにかなりのお入れ込みで、宮内庁に「おれは芸者と結婚してもいいか」と聞いたことさえあって、宮内庁の方に「声にならない声」を上げさせたことも(寛仁親王『皇族のひとりごと』)。いや~、自由ですね! 

成績優秀な兄・麻生太郎と勉強は好きでなかった信子さま

――信子さまも、中等科までは聖心女子学院に通っておられ、自由でのびのびとしたお嬢様だったそうですが。 
 
堀江 はい。お母様にあたる麻生和子さんは、吉田茂元首相の三女。吉田茂は元外交官でもありましたし、信子さまの高い英語能力は遺伝といえるかもしれません。 

 ただ、それ以外のお勉強はあまりお好きではなかったご様子です。お兄様(=麻生太郎さんなど)は成績優秀でいらしたから、試験のヤマをかけてもらっていたそうですよ。それが外れて点数が悪くても、信子さまは平気だったとか。 

 ちなみに殿下からの最初のプロポーズを、麻生家がお断りしたあとの信子さまは「得意な英語を生かして幼稚園で英語を教えられていた」とのこと。 
 
 しかし、世間に婚約を発表した後が大変だったそうです。 寛仁殿下はモテモテでいらっしゃったぶん、婚約発表を聞いたとある女性が「自殺する」と置き手紙して、北海道に失踪したことまであったそうな。寛仁殿下みずから北海道に止めに行こうとなさったのを周囲が制止し、かわりに女性の親戚を送り、なんとか自殺は食い止められたそうですが……。  

結婚生活は順調だった寛仁殿下と信子さま

――結婚まで苦労なさった寛仁殿下そして信子さまですが、ご結婚生活についてのエピソードはありますか? 
 
堀江 結婚生活は順調だったようです。ご結婚の翌年(昭和56年・1982年)に早くも長女・彬子さまが、その翌年に次女・瑶子さまがご誕生でしたね。 

 「二人目は男の子を」という周囲の声に対し、寛仁殿下は女の子でいいんだよ、という態度を絶対に崩すことはありませんでした。逆に女の子「が」欲しかったとも……。 
 
――ご結婚後の殿下には変化はあったのでしょうか? 
 
堀江 寛仁殿下は「障害者福祉」という一点に絞って、活動を行っていきたかったご様子ですね。先日のラジオでも、彬子さまはさまざまなご公務のオファーが宮内庁に舞い込んでくることを明かしておられ、その中にはお断りするものもあるとのことでしたが、結婚直後の寛仁殿下は「本当にやりたいこと」と「世間からの要望」の間で苦しむようになり皇籍離脱(=皇族を辞めること)をお考えになったり、悩みが深すぎて10キロくらい痩せてしまわれたこともあったそうです。 
 
――話題を呼んだ寛仁殿下のお言葉に「皇室はストレスの塊」というものがありましたよね。 
 
堀江 平成19年(2007年)に「ニューヨークタイムズ」誌の取材でお話しになられた言葉ですね。「本当にやりたいことがやりづらいのが皇族の人生」という意味かもしれません。 

 またこの頃、ご自分がアルコール依存症の治療中であることも公表なさっています。さらには肝臓病であること、そして「がんサバイバー」であることも。 
 
――次回につづきます。 

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2025/05/17 17:00
愛と欲望の世界史
だいぶざっくばらんとされた殿下ですね