【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

天皇が「ビビビ」ときた3才の少女を勧誘!? 女官スカウト、知られざる波乱の実態

2020/04/11 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

知的なだけではダメ! 独特の感性で女官を選別する明治天皇

天皇が「ビビビ」ときた3才の少女を勧誘? 美しく知的なだけでは務まらない女官のお仕事の画像2
『椿の局の記』(近代文芸社新書)

――どうして明治天皇は「この娘を女官に!」と確信なさったのでしょう?

堀江 さぁ……明治天皇の判断基準は本能的というか、とにかく独特だったようで、たとえばほかの女官志願者たちを落として、例の『女官』の山川三千子を合格させたのも明治天皇の鶴の一声だったそうです。

 ほかのお嬢様たちは面接でスラスラと受け答えしているのに対し、山川三千子は返答がうまくできませんでした。逆にそれを「無口なところがいい」と評価したのが明治天皇だったそうです。まぁ、女官という仕事に知性は必要ですが、基本的には天皇・皇后の手足のように滅私奉公する仕事ですから……。ただ、美しく、知的であれば良いというものでもなかったのでしょうね。

 『椿の局の記』によると明治天皇が「あの方(ほう)よこせ」「あげあげ」とおっしゃったそうですが……おわかりでしょうが、この場合の「あげ」はテンションの話ではありません。「娘を宮中にあげろ」、「早く出仕させなさい」という要請ですね。坂東登女子の父君は、娘はまだ幼いので……と言いつつも、実家で行儀見習いをみっちり彼女に叩き込み、厳しくしつけました。明治天皇が崩御、大正天皇が即位なさった大正元年、坂東登女子は二十歳で宮中にあがります。

 これは、当時の結婚適齢期ですね。だから、彼女の父親の「計算」がありそうです。老いた明治天皇のお側に仕えさせるより、「もしも」を期待して、お若い大正天皇のお側に出仕させたいというような……。まさにこの時、『椿の局の記』によると、彼女はいきなり「権典侍(ごんのてんじ)」……つまり大正天皇の側室候補として女官のキャリアをスタートさせることになったんですね。


――波乱の幕開けですね!

堀江 その時、大正天皇から与えられた女官名が「椿」で、後に彼女は「椿の局(つばきのつぼね)」と呼ばれるようになります。ただし、当時すでに大正天皇とその皇后・貞明皇后の間には、後に昭和天皇となられる皇子たちが3人も誕生していました。

 だから、権典侍として仕事をしていても、実際のメインの仕事内容は側室候補というより、お毒味ばかりだったそうです。食事に毒が入っていないかを調べるというアレですね。そもそも、貞明皇后が夫を婚外恋愛からガッチリとガードしており、夫が関心を示す女官たちにもキツく当たるケースがちらほらありました。山川三千子も、貞明皇后から生意気で大嫌いな女だと言われたと『女官』に書いていますね(笑)。

 椿の局こと坂東登女子は、同僚の女官たちの中でも大正天皇からあきらかに寵愛されていたようで、その分、貞明皇后との軋轢も激しかったようです。「権典侍」の身分のまま彼女を置いておけば、本当に大正天皇の側室になってしまうと貞明皇后は危惧したようです。こうして貞明皇后が嫉妬をあらわになさるため、宮中全体の雰囲気が悪くなってしまったのだとか。これが影響したのか、坂東登女子は自分の意志で上級女官である「権典侍」から、いわば雑用係のような「命婦(みょうぶ)」に官位を下落させてまで、いわゆる“ジョブチェンジ”をしました。もともと彼女自身は最初から権典侍ではなく、掃除とかお金の整理とか、雑用的なことをやらせてほしいと希望はしていたようですが、実家と宮中の間で権典侍となることは勝手に決まってしまっていたようです。

――そこまでしても女官を続けるあたり、さすが明治天皇が見込んだ女性かもしれませんね。波乱万丈の坂東登女子の女官生活については次回に続きます!


堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2020/04/11 17:00
『椿の局の記』
明治天皇、ジャニーさんばりの千里眼