「吉原遊廓はすごい!」は作られた“幻想”? 江戸時代~現代をめぐる風俗文化のウラ側
中塩 今はかなり減りましたが、少し前まで風俗情報誌はたくさん出回っていました。江戸時代にも“吉原細見(よしわらさいけん)”という風俗情報誌があった、と書いてあって驚きでした。
永井 店名、場所、遊女の名前……そういう情報が全部載っているものがありましたね。
中塩 いわゆる名鑑ですね! これ、作っていた方は吉原で働いていたんでしょうか?
永井 最初に作ったのは、歌麿や写楽を売り出したことでも知られる蔦屋重三郎(現在のTSUTAYAとは無関係)。彼のアイディアで出したら大ヒットしたそうです。ただ、当時は著作権や版権などない時代ですから、売れたらほかも“わー!”と一斉に作るんですね。だから、いろいろな版元から出ています。掲載されている情報はほぼ同じですがね。
曼荼羅 有料だったんでしょうか?
永井 値段はよくわからないのですが、有料でした。吉原に行く人はもちろん、お土産として買った人も多いと思います。吉原は高くて遊べなかったけど、“吉原細見”くらいなら買えるので、お土産として持って帰ったんですね。東京は空襲だの震災だので結構焼けてしまいましたが、地方の旧家なんかの蔵を探すと、まだ出てくるんです。
曼荼羅 ご先祖さん、吉原に遊びに行っていたってバレちゃいますね(笑)。
中塩 そうですね(笑)。風俗情報誌があったなら、例えば今でいうお客様の“送迎”みたいなのはあったんでしょうか? 吉原は最寄駅から遠いこともあって送迎車が出ていますよね。
永井 車での送迎、というのはもちろんありませんが、船宿はなじみの客になると、サービスで「お送りします」って提灯をもってお店まで送り届ける、というのはあったようですよ。あくまで“おもてなし”という意味での送迎ですね。
曼荼羅 今でいう、“指名制度”みたいなのもあったんでしょうか?
永井 はい。吉原は“永久指名制度”だったそうです。その子と決めたら、その店ではその子だけ。それがルールだったみたいです。
曼荼羅 それいいですね! 同じ店の中で何人も指名してしまうと、女の子の間でそのお客さんが有名になってしまったり、トラブルになってしまったりしますからね。
永井 今は皆さん仕事が終われば家に帰れるでしょうけど、吉原の女性は職住同一ですから、朝から晩まで一緒にいなきゃならない。だから、働いている女性が客のことでもめないように、その辺の配慮はしっかりしていたみたいですね。