[連載]ギャングスタのスターたち

殺人事件、ポン引き、ポルノ映画監督……スヌープ・ライオンの数奇な人生

2013/09/03 16:00

 ドレーの舎弟となったスヌープは、ドレーがシュグ・ナイトと共に立ち上げたレーベル「デス・ロウ・レコード」と契約を結び、ファーストアルバム『ドギースタイル』(93)をリリース。スヌープは、ハーレム・ルネサンス(1919~30年代初期)に開発され、70年代にアフリカン・アメリカンのピンプ(ポン引き)が好んで使っていた、語尾に「iz」「izzle」「izzo」「ilz」をつける話し言葉をラップに取り入れていたのだが、このスタイルが世間に大ウケ。ほかのギャングスタ・ラッパーとは異なるソフトな声もオリジナリティにあふれていると評価され、アルバムは500万枚売れた。こうして、スヌープはHipHop界に欠かせないギャングスタ・ラッパーとなったのだった。

 この頃から、スヌープはデス・ロウ仲間の2パックと兄弟のような親しい友人関係を結び、公私にわたり共に行動するようになる。「奴とは同じバイブだったんだ。対等な関係で、パックのような奴をオレはずっと求めていた」とスヌープは振り返っている。

[バッシング・評価]

 まさに順風満帆にキャリアのスタートを切ったわけだが、93年7月に銃刀法違反で、同年8月に殺人容疑で逮捕されてしまう。7月の逮捕は、交通違反で車を止められた際、車内からピストルが出てきたため逮捕されたという軽犯罪だった。しかし、8月は、ライバル・ギャングに属していた若者を射殺した重罪。被害者は数人の友人と共にスヌープのアパートを訪れ、スヌープの友人と口論になった。悪態をつき、立ち去った彼を、スヌープはボディガードたちと車で追い、追いついた公園で再び口論となった。直後、若者はこの公園で射殺されたのだが、警察は、スヌープとボディガードが撃ったと結論付けた。スヌープは、自分が撃ったわけではないと主張したが、殺人罪で起訴され3年にわたり裁判で闘うことになった。

 人生最大のピンチに面したスヌープだったが、ギャングスタ・ラッパーとして売っていたため、裁判はプラスとなり、アルバムは売れに売れた。保釈金100万ドル(約1億円)はシュグが払い、スヌープはラッパーとして精力的に活動した。94年には「Murder Was the Case」をリリースし、この曲が大ヒット。『MTV Video Music Awards』でパフォーマンスを行った際には、「オレは無実だ!」と2回繰り返し、大きな話題を呼んだ。「ギャングスタ・ラップ=暴力、犯罪」だと論議が巻き起こったが、騒ぎが大きくなるほど、彼のラップは売れたのだった。


 95年1月13日、裁判がスタート。「判決が下るまでは無罪だっていうけど、黒人の場合、判決が下るまで有罪。無罪でも、有罪なんだ」というスヌープの発言通り、誰もが彼は有罪だろうと見ていた。58週間にわたる裁判には、彼にとって唯一の癒やしである1歳になる長男を連れて行くこともあり、メディアにもみくちゃにされ、怒りをあらわにすることもあった。96年2月20日、スヌープは見事、無罪を勝ち取り、セカンドアルバム『ドッグファーザー』(96)の制作に着手。大親友の2パックと「2 of Amerikaz Most Wanted」でコラボし、絆を深めた。しかし、2パックは96年9月13日に銃撃で他界してしまう。

 2パックの死、シュグと仲たがいしたドレーの独立、スヌープ自身もシュグが作成しためちゃくちゃな契約書にサインさせられていたことを知り、デス・ロウとは距離を置く決心をする。そして、ハードコアなギャングスタ・ラップから離れ、作品にも、Gファンクやオルタナティヴ・ロックなどの要素を積極的に取り入れるようになった。98年、デス・ロウとの契約が満期を迎えたスヌープは、晴れて決別。「ノー・リミット・レコード」と契約を結び、名前を「スヌープ・ドッグ」に改め、順調にキャリアを重ねる。
 
 00年には、ラップとポルノを融合させたポルノ映画『Snoop Dogg’s Doggystyle』を監督。これが大ヒットし、ポルノのオスカー『AVNアワード』の賞まで獲得。続く『Snoop Dogg’s Hustlaz: Diary of a Pimp』(02)も大ヒットし、ポルノ界からも一目置かれる存在となった。そして、6thアルバム『ペイド・ザ・コスト・トゥー・ビー・ダ・ボス』(02)を通し、ギャングのイメージから脱皮し、ピンプのイメージを確立することに見事成功した。

『スヌープ・ドッグ/ロード・トゥ・ライオン』