サイゾーウーマンコラム日本のアウト皇室史学習院を拒絶し、天皇が激怒 コラム 【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!! 学習院は「校風がダメ」、成城高等学校を選んだ皇族とは? 天皇も激怒! 2025/02/08 17:00 堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト) 日本のアウト皇室史 【サイゾーオンラインより】 明治天皇(1852-1912)(C)GettyImages 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 目次 ・学習院進学を拒否した皇族たち ・「なぜ学習院に通わないのか」明治天皇を激怒させた皇族 ・皇族が学ばなければ、学習院は設立意義を失う? ・学習院の教育方針への反発? 転校した皇族も 学習院進学を拒否した皇族たち ――秋篠宮家の悠仁親王が、筑波大学に推薦合格なさいました。近年では、悠仁親王のように、一度も学習院と御縁のなかった皇族は珍しい印象がありますね。 堀江宏樹氏(以下、堀江) 秋篠宮家では悠仁親王の姉宮に当たられる眞子さま(現・小室眞子さん)、佳子さまも大学は学習院ではなく他校をお選びになっていますから、何か学習院を積極的に避けたいと感じる家風なのでは……などとも噂されましたよね。 ――過去にも、学習院を拒否した皇族方はおられたのでしょうか? 堀江 実は戦前にもそういう例がありますね。戦前の皇族は、天皇陛下から経済的な援助を受けており、それゆえ天皇のご意思は絶対のはずでした。どこに家族と住むべきか、どういう教育を子どもたちに授けるべきかなどについても天皇のご意向には逆らえないというのが大原則なのですね。 前回までは、昭和初期の逸話として、久邇宮家出身の邦英王(正確には当時すでに臣籍降下し、東伏見伯爵)が、学習院中等科時代から「東京帝大法学部を目指す」と公言していたにもかかわらず、入学試験ではあえなく不合格となってしまったお話をしました。 昭和10年(1935年)当時、京都帝大文学部は新設まもないこともあり、定員割れをしていました。そこに邦英王も学習院高等科卒業生の「特権」として滑り込めることになったのですが、邦英王は「やっぱり私は浪人してでも東大法学部を目指す!」と言い出しました。しかし、王の夢はほかの皇族がたの猛反対、そして昭和天皇の説諭によって打ち砕かれてしまったのですね。 ――邦英王のほかにも同じような皇族がおられたということですか? 堀江 今回はそれよりもかなり前、明治末のお話です。 「なぜ学習院に通わないのか」明治天皇を激怒させた皇族 ときの帝はいうまでもなく明治天皇です。明治天皇には「皇族たる者、何か特別な事情がなければ東京に住むべきだし、男性皇族は軍人として国家に奉仕すべきだ」というご信念がありました。 しかし、明治天皇にとっては義理の伯父にあたる久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王は、激しい性格で知られた方で、明治天皇の命令などムシ。家族ともども住み慣れた京都に居住しつづけました。 しかも朝彦親王は、ご自分のお子さまがたを5人とも東京・学習院ではなく、京都の学校に入学させたのでした。 ――なかなか思い切った宮さまですね。明治天皇は怒らなかったのでしょうか? 堀江 もちろん明治天皇は激怒なさいました。しかし、何より天皇が怒ったのは、宮家の居住地よりも教育の問題だったのです。 「なぜ私の皇子(のちの大正天皇)も学ぶ学習院に久邇宮家の子どもたちが通わないのか」という明治天皇の御意向をムシできず、結局、久邇宮家の5人のお子さまのうち3人だけが、明治21年(1888年)秋、京都の学校から東京・学習院に転入することになりました。 ――5人のうち3人だけというのが、朝彦親王にとっては苦渋の決断だったことがうかがえるようです。 堀江 しかし、朝彦親王の長子・邦彦(くによし)王は、学習院中等科に入るつもりが、東京で持病を悪化させ、熱海で静養せざるを得なくなったのです。 そして翌・明治22年、ようやく学習院に入学したはよいものの、とつぜん上京してきた父宮――つまり朝彦親王に「病気療養」の名目で京都へ連れ帰られてしまったのです。 明治天皇は「学習院に邦彦王を戻せ」と催促しましたが、朝彦親王は断固拒絶。その時、朝彦親王が語った理由が「学習院は風儀が悪い」だったんですね。 皇族が学ばなければ、学習院は設立意義を失う? ――明治天皇のお声がかりで創立された学習院の「校風がダメ」とは、なかなかのご態度ですね……。 堀江 結局、明治天皇が妥協し、「邦彦王は東京で学ばせれば、それでよい。学校は学習院でなくてもいい」ということになって、成城学校(現在の成城高等学校)に邦彦王は通うことになったそうです。 しかし、そんな朝彦親王と邦彦王の「ワガママ」に激怒したのが、明治天皇の意向で学習院院長を任されていた、元・軍人の三浦梧楼(みうら・ごろう)でした。 学習院の校風の問題について触れましたけど、戦前の学習院の17名いる院長のうち、教育者・学者といえるのは9名だけ。残る8名は、生粋の軍人だった人物なのですね。これは当時の教育機関でも珍しいほどに高い「軍人濃度」だったそうですよ(浅見雅男『学習院』)。 三浦院長いわく、皇族が学ばなければ、学習院は設立意義を失い、「自然廃滅」してしまうだろう、と。彼は邦彦王の転校を理由に、院長の職を辞そうとして慰留されたほどに、皇族が学習院に通わない問題については激烈な反応をしています。 学習院の教育方針への反発? 転校した皇族も ――悠仁親王がお茶の水女子大学付属幼稚園に進学し、その後も一度も学習院の門を叩かなかったことに対し、学習院関係者が嘆いたのと同種のセリフだな、と思いました。 堀江 とくに戦前においては、皇族・華族が学習院に通わないことは、明治天皇の御意志=御遺志に逆らう行為に等しかったのです。そういう特殊な同調圧力がある中でも、学習院を断固拒絶した皇族が明治末にも登場しています。 朝彦親王の甥にあたる伏見宮博恭(ふしみのみや・ひろやす)王は、長男・博義(ひろよし)王を、学習院中等科から東京府立四中に転校させています。 理由としては「学習院に於ける教育方針が大宮殿下(=博恭王)の御意に適はなかった(小笠原長生『博恭王殿下を偲び奉りて』)」というのですが、それにはカリスマ軍人・乃木希典主導による恐るべき「教育事情」への反発があったようです。 ――次回につづきます。 堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト) 1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。 記事一覧 X:@horiehiroki 原案監修をつとめるマンガが無料公開中。「La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~」 最新刊は『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房) 最終更新:2025/02/08 17:00 楽天 愛と欲望の世界史 学習院を見る目変わるわ 関連記事 明治天皇の側室として子を出産した、有名な女官・柳原愛子とは?皇室ブランドの「学習院」、そもそも“獄道者”予備軍の救貧学校だった!? イメージと大違いの史実秋篠宮家が「推薦入試」にこだわり続ける事情――学習院のほかは「不合格」だった佳子さまに見る“事実”秋篠宮家が避け続ける「学習院」、知られざる皇族の関係ーーかつては「ウチにお入りになるのが自然」発言も昭和天皇が行った「女官=天皇の側室」改革とは? 背景に「正妻」の子ではない悲しみ 次の記事 スト松村北斗の「沈黙」演技の魅力 >