ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】
終戦から4年後の昭和24年(1949年)、ジャニーさんらきょうだい3人は学業修了のために、またロサンゼルスに帰ってきます。高校を卒業するためですね。それはごきょうだいがアメリカで生まれ、アメリカの市民権を持っていたからこそ実現したのです。そのときに米国別院にいたのが、高橋成通先生というお坊さん。喜多川諦道先生の後を受けてやってきた4代目の主監です。
ジャニーさんきょうだいは高橋先生とも面識があったので、よく別院にも出入りをしていたようです。それは、ジャニーさんの好きな芸能がたくさんあるところだったからです。父・諦道師が心血を注いできた芸能が、その後もこの別院で受け継がれていました。ジャニーさんは別院で催し物があるときは、よくアルバイトとしてステージ周りの手伝いをしていたそうです。
当時、ジャニーさんは、リトルトーキョーで写真館を営む、写真家であり米国別院の信徒である宮武東洋さんの家族と仲が良かったようです。この宮武さんは、戦前・戦中・戦後を通して日系人の写真を撮り続けた人物で、日系人界では名の知られた方です。
宮武さんは人気写真家で、戦後すぐの頃日本からロサンゼルスを訪れた有名人・芸能人のほとんどを撮影していて、宮武さんのアルバムには、1953年に訪米した当時の皇太子(現・上皇)も写っています。ここに、ジャニーさん兄弟と高橋さんの長女、フランセス中村さんが一緒に撮影した写真があります。フランセスさんは父の高橋先生と一緒に、諦道さんのお父様が営んでいたぜんざい屋を訪ねてごちそうになったこともあったそうです。
また、ジャニーさんが渡米した翌年の1950年に朝鮮戦争が勃発するのですが、彼はアメリカ国民として米軍に徴兵されています。その後、朝鮮半島での兵役を終えた後、ジャニーさんはアメリカには戻らず、経由地である日本に残り、そしてジャニーズ事務所を設立したのです。