ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】
世の中にはいろいろなタイプの人間がいるように、お坊さんにもいろいろなお坊さんがいます。諦道先生は、明治29年に大分県でお生まれになりました。諦道先生が13歳のとき、高野山に登って、お坊さんの修行を始めました。諦道先生のお葬式をしたのは、高野山の山の中にある普賢院様というお寺ですが、この普賢院様に、諦道先生は弟子入りをしました。その関係で、普賢院さんにお葬式をお願いをすることになったんだろうと思います。
諦道先生がお坊さんになった当時の普賢院様のご住職は、重松寛松僧正という方でした。重松僧正はいろいろな政界、財界の方と懇意にされていらしたそうです。その中のお一人が大隈重信さんでした。重松僧正が上京する際には、しばしば諦道先生をお伴としていたようで、諦道先生も、大隈さんから可愛がられていたようです。
そのようなご縁があったことから、諦道先生も胸の内に海外への関心は大きくなったようです。しかも、このような中央政財界の方から「あなたも、一度世界を見てきてはどうか」と勧められ、十分な餞別まで喜捨していただき海外に行く段取りをしました。こうして世界一周の旅の準備も整い、1923年(大正12年)9月15日の船の予約をとり、アメリカに向けて出港することにしていました。
ところが、9月1日に関東大震災が起こったために、諦道先生は一時渡航を延期してお見舞いのために上京されます。この時、永田秀次郎東京市長より犠牲者の供養を依頼され、遺骨を持って高野山までお帰りになったというエピソードが残っています。実際に諦道先生が外遊の旅に出たのは、翌年の1924年(大正13年)の2月でした。
また、こんな話もあります。外遊の準備を進めていた時、大阪の山下敬二郎外事課長という方が喜多川先生の「諦道」という名前を見て、「もしあなたが僧侶であるなら『開教師』の辞令を所持していたほうが何かと便利であろう」と助言をしてくれたおかげで、時の高野山宗務長であった藤村密幢師に願い出て辞令を交付してもらい、渡米したという経緯が残されています。