ホン・サンス新作『逃げた女』は、いつも以上に“わからない”!? 観客を困惑させる映画的話法を解説
近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『逃げた女』
前回のコラムではホン・サンス監督の『ハハハ』(2010)を取り上げ、韓国映画の理想的なヒーロー像からは完全に逸脱しながらも、人気俳優たちが演じる“あるべき”姿から解放されたキャラクターたちの魅力とその意義について紹介した。そのことはホン・サンス・ワールドの大きな特徴であるし、映画を通して韓国の社会や歴史を考えるという本コラムの目的にも合致していたと思うのだが、ホン・サンス映画の魅力をそこにだけ収斂させてしまうのは片手落ちではないか……。6月11日公開の新作『逃げた女』(20)を見て、そんなことを考えるに至った。
もちろん、この新作にも“ダメ男”の影はチラついているし、タイトルがすでにネガティブなニュアンスを含んでいるように、キャラクターたちは決して格好よくは描かれない。だが本作は、どちらかというと“男”ではなく“女たち”の物語であり、さらには“何を描くか”ではなく“どう見せるか”、その手法・話法をより楽しむべき作品として仕上がっている。
そこで2回連続とはなるが、今回はホン・サンスの新作『逃げた女』を中心に、彼の映画的話法の魅力について紹介したい。コラム本来の方向性とはだいぶ異なる内容にはなるが、明らかに観客を選ぶ監督であり、初めて出会う観客にはチンプンカンプンとも思われかねないホン・サンス映画の味わい方に関するひとつの提案として、ご一読いただければ幸いである。
ホン・サンスのほとんどの作品が似たり寄ったりの物語で、キャラクターたちの設定もほとんど変わらない。にもかかわらず、どの作品も刺激的で癖になってしまうのはなぜだろうか。多くの評論家が指摘しているのは物語の簡潔さであり、徹底したミニマリズムを追求した結果、起承転結を軸にする既存の物語の概念を覆しながらも最終的には「物語」として成立させてしまう、不思議な「ホン・サンス話法」の力である。
彼の映画には、クライマックスに向かって盛り上がっていく展開もなければ(いや、そもそもクライマックス自体が存在しない)、善悪のはっきりしたわかりやすいキャラクターも登場しない。世界中に流通している主流映画(たくさんの劇場で公開され、多くの観客を集める物語映画)が、因果関係が明確な展開、目的を持った主人公を中心に直線的に進んでいく物語を原則とするならば、ホン・サンスの映画はすべてにおいて対照的といえるだろう。ダラリとした男女の日常が断片的に提示され、観客は彼らの終わりそうもない会話をひたすら見続ける。
そうして提示される一つひとつの光景はまるでパズルのピースのようであり、最後のピースがはめられるまで完成形はまるでわからない。観客は個々のピースから全体像を想像するしかないのだが、その想像はいつも見事に外れてしまう――それこそがホン・サンス作品の一番の魅力であり、観客にとってピースとピースの関係性がわかりづらいからこそ、その困難さが見ることの楽しみにつながっていくのだ。
そうこうしているうちにいつのまにか映画は終わり、結末に至ってもその全体像は結局よくわからないままということもしばしばで、私たちは戸惑いつつ、映画館を去ってからも今見た映画を反芻し、頭の中で再びパズルに取り組むことになる。そして、組み合わせ方の多様さと完成形のあまりの自由度に驚かされることになる。
特に近年のホン・サンス作品は、毎回何かしら国際映画祭で受賞しているが、見ている間は“一体この映画のどこに受賞の根拠が見いだせるのだろう”と更なる困惑に陥ることも少なくない。ピースとピースの間の因果性を見いだし難い映画的話法を持つ『逃げた女』もまた、20年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞している。それでは、ホン・サンス映画に共通して見られる特徴を通して、その映画的話法の魅力について考えてみよう。私が思う具体的な特徴とは、「反復、省略と、それゆえの曖昧さ」である。