[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は“男性社会”を可視化する――制度だけでは足りない「見えない差別」の提示

2020/10/23 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

キム・ジヨンに「憑依」した女性たちは、何を“語れなかった”のか?

<物語>

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 1982年生まれのキム・ジヨン(チョン・ユミ)は、会社員の夫・デヒョン(コン・ユ)と幼い娘のアヨンの3人で暮らす平凡な専業主婦。大学卒業後、やっとの思いで入った会社は出産とともに退職、現在は家事や育児に追われる日々を送っている。そんなジヨンにある日、異変が現れる。時折、母(キム・ミギョン)や祖母など、身近な女性に憑依されたかのような言動をとるようになったのだ。驚いたデヒョンは精神科医に相談するが、ジヨンに自覚はなく、デヒョンの心配や優しさもいちいち気に障る始末だ。母・妻・嫁としての立場に疲れ、娘との孤独な時間の中で焦燥感にさいなまれる中、ジヨンは幼い頃からの思い出を振り返りながら、自分自身の行き方を見つめ直していく……。

【※作品が公開されてから間もないため極力ネタバレは避けますが、一部物語の展開や結末に言及していますのでご注意ください】

 本作において、おそらく最も象徴的な表現であり、注意深く見る必要があるのはジヨンの「憑依」だろう。ジヨンには度々「ジヨンではない人物」が憑依し、ジヨンの口を通してその者たちの言葉が発せられる。だがそれは裏を返せば、ジヨンが自分自身の声で本音を言えず、他者の声を借りなければ言いたいことが言えない状態に置かれているのを意味する。ジヨンから声を奪っているもの、それはまさに、娘だから、妻だから、嫁だから、母だから、そして女性だからという理由で加えられる、あらゆる抑圧である。一人の人間としてのジヨンの欲望はこうして抑圧され、ジヨンは声を奪われる。

 ヒステリーの治療を通して人間の精神構造を明らかにしたフロイトによれば、無意識に抑圧された欲望は、何らかの形で必ず返ってくる(=意識の上に現れる)という。つまり、憑依されたジヨンの姿はまさに、「女」であるが故に無意識のうちに抑圧された欲望が戻ってきた状態なのである。だが気をつけなければいけないのは、欲望はそのままの形ではなく「別のもの」となって現れる点だ。フロイトが「圧縮と置換」と呼んだその現象は、抑圧されたいくつもの欲望が一つにまとまる過程で、欲望はむき出しになるのを避け、類似する別のものに変えられて表面上に現れる働きを意味している。その最たる例が「夢」というわけだ。ではジヨンの欲望はどのように「置換」されて現れたのだろうか。


 ジヨンに最初に憑依するのは「母」である。日本のお盆にあたるチュソクを迎え夫の実家を訪れたジヨンは、料理の支度にいそしみ、絶えず姑に気を使い、もはや疲れ切っている。もう少しの辛抱で自分の実家に帰れると思った矢先、義理の姉夫婦の訪問を受けて、台所から離れられなくなったジヨンを姑は気にも留めず、娘と話に花を咲かせる。その瞬間、ジヨンの母が彼女に乗り移り、母の声を借りたジヨンは、姑に向かって「私も娘に会いたい、早くジヨンを帰らせて」と言い放つ。

 儒教的伝統の中で、嫁の姑への絶対的な服従が美徳として強いられる韓国では、チュソクや正月など大勢の親族が集まる場における嫁の「労働」を当たり前としてきた。嫁の居場所は台所であり、夫の親族をもてなすために延々と家事を続ける嫁こそあるべき姿なのだと。したがって、疲労や不満がいくら蓄積しても、労働を拒否したいという嫁の欲望は抑圧せざるを得ない。韓国には「며느리 우울증(嫁鬱病)」と呼ばれる精神病があるが、チュソクの前日には自殺者が出るほどのいわば社会問題であり、嫁への抑圧がどれほど厳しく重いものかを物語っている。憑依に驚き凍り付いた表情を浮かべる姑らを前に発せられるジヨンの言葉は、韓国の無数の「嫁」たちの声でもあるのだ。

 ジヨンの母は、その世代の女性たちの多くがそうであったように、兄弟の誰よりも優秀だったにもかかわらず、男兄弟の学費のために夢を諦めて工場で働いたという、男性中心社会の典型的な被害者である。母はそんな自らの人生を隠さずにジヨンに語り、就職より結婚を強いる夫(ジヨンの父)に向かって怒りをあらわにし、「やりたいことをやりなさい」とジヨンを諭す。家父長制の犠牲者である自らの立場を認識し、娘に対してはそれを繰り返させまいとする母の姿は本作におけるひとつの救いであり、姑を前に不満を口にできないジヨンがそんな母の声を借りる(=母に置換される)のは、ある意味当然かもしれない。

 だが、そんなジヨンの母のような女性が存在する一方で、女性が家父長制を自ら内面化し支え続けてきたのもまた事実である。「かつての」嫁は、自分が受けた数々の仕打ちを「次の世代の」嫁にぶつけ、女が女につらく当たる図式が一種の伝統のようになってしまっているのだ。ジヨンの姑がジヨンに向けるまなざしは、かつて自分が同じように姑から向けられたものを反復しているにすぎない。映画の中で、同居する「祖母」が誰よりもあからさまに「男の孫と女の孫」を差別する姿に、問題の根深さが表れているといえるだろう。

82年生まれ、キム・ジヨン