「偉人」と呼ばれる女性たちの“人間臭い”裏の顔を暴く! 『スゴ母列伝』『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』【サイゾーウーマンの本棚】
ヘレンの「聖女でない部分」をあらわにする、それはともすれば露悪的な行為にも思えるが、著者の執拗な追究で顕在化されるのは、いわゆる“健常者”が障害者に無意識に押し付けがちな聖人性でもある。ヘレンが聖人然と振る舞っていたのは、そのプレッシャーに抵抗するより、いっそ楽だったからかもしれない。彼女への手紙を通して、ヘレンが健常者に向けて無意識に押し込めていた、説明し難いふとした日々の違和感、理不尽な世界への怒りと向き合っていたことに気づいた著者は、彼女への愛憎を次第に自らの内的成熟に昇華させていく。そのさまは、著者の精神的な旅路を共にした読者にも、大きな感動をもたらしてくれるだろう。
さらにもう一つ本作で特筆すべき点は、「見えない」著者が感受している視覚以外の感覚の圧倒的な情報量だ。香り、触覚、温度、人が動くことで生まれる空気の揺れや振動……著者の表現する世界には、視覚情報に頼りがちな私たちが受け取りそびれている要素が詰まっており、まるで知らない新鮮な世界が広がっている。何かを失ったということは、その代わりに他の何かを得ているということでもある。目が見えないことが「かわいそう」であり「不幸」である、それが事実だとしたら、“目が見える私たち”の無理解がその責任の一端を担っているのだろう。そんなことにも気づかされる一冊だ。
読めば「母親らしく」の呪縛から解き放たれる『スゴ母列伝』
「聖母」という言葉が象徴するように、「母親」という役割にも必要以上に聖人性を求められがちだ。『スゴ母列伝』は、偉人や著名人の「母」という側面に焦点を当て、「聖母」「良い母親」といった言葉ではくくりきれない、知られざる破天荒な育児エピソードを綴る評伝短篇集だ。
時に教育熱心になり過ぎたり、娘の多感な時期に不倫疑惑で激しいバッシングまで受けるなど、“完璧な母”像からは遠かったものの、生涯娘たちから愛され大切にされたマリー・キュリー(キュリー夫人)。泣きわめく幼い息子(岡本太郎)を、柱にくくりつけて仕事をした小説家・岡本かの子。「未婚の母」として周囲から向けられる冷たい視線を意に介さず子どもと共に遊びまわり、路面電車にダッシュで飛び乗って近所の子どもたちの人気者になる『長靴下のピッピ』の作者・アストリッド――。
現代においても(当時においても)、一部の人々からは「信じられない」「母親としてありえない」と誹りを受けたであろうアクの強い子育てをしてきた彼女らのエピソードは、品行方正で、子どものために最適な環境を作る「良い母」だけが母親ではないことを示してくれる。
著者は、「職業人として生きた女性の人生を伝える時、母・妻の部分を強調するのは、フェミニズムの観点からはよろしくない」と前置きしつつ、「妊娠・出産・育児はどんな女性であっても命がけで、多大なリソースを割く大事業である」と、母親としてにじみ出る豊かな個性をつまびらかにし、ユーモアあふれる語り口でそのあり方を肯定していく。
育児にたった一つの正解はないと頭ではわかっていても、つい「100%正しいお母さん像」を内面化してしまい、理想の母親になれない自分を責めてしまう――そんな人にとっては、「自分は自分にしかなれない」と達観させ、からっと風穴を開けてくれる本になるだろう。
(保田夏子)