「民間から皇族へ!」“ニセ天皇”一族、セレブリティを巻き込んだデタラメ“家系図”【日本のアウト皇室史】
堀江 熊沢家に伝わる家系図はなんと約60種類もあるそうです。これにはウラがあります。江戸時代くらいには、土地の名士の一族が自分たちの系図を「盛る」ことがはやったのです。偽の系図作成のアルバイトをしている貧しい学者や僧侶に、資産家だった熊沢家の先祖が依頼。系図屋は南北朝のあるプリンスに血統がさかのぼれるという偽系図を作ったのではないかなぁ、というのが僕の推理です。
しかしそれが60種となると、熊沢家は血統というものに非常に関心が高い一族だったといわざるを得ません。そして、ここからが一番のポイントです。系図に細かな違いがあるにせよ、熊沢家の初代は後亀山天皇の皇子で、「小倉宮」という方だとされています。もちろん実在しています。
ただ……小倉宮は「恒敦(つねあつ)」のお名前で知られる方で、熊沢家の家系図に書かれてある「実仁親王」というお名前では一般的とはいえません。いくら熊沢天皇やその支持者が、実仁親王は「恒敦」の異名だと主張しても、その史料的な確証はないのです。
――それだとちょっと苦しいですね。
堀江 しかも、「実仁親王」といえば、一般的には北朝の後小松天皇(第100代)の皇子で、同じく北朝の称光天皇(第101代)として即位した方のお名前として知られているのでした。小倉宮はたしかに南朝関係者ですが、実仁親王といえば北朝関係者になる。
――家系図の記述が矛盾しているのですね。
堀江 そう。前提部分で、派手に転んでしまっている。さらにダメ押しのように、当時すでに熊沢一族の手元には、先祖がかつて皇族の身分であったことを保証するような物品の類は何一つ残されていなかったのです。熊沢家の中にも「史料不備」の本当の意味を察する人々はおり、いったん、「民間から皇族へ」という一族の悲願は、下火となります。
しかし、熊沢一族の中でも「民間から皇族へ」の夢を見ることがやめられない人がいました。それが例の「偽天皇」熊沢寛道の養父にあたる熊沢大然(くまざわ・ひろしか)という人物でした。
――家系図の誤りを指摘されてもなお?
堀江 彼らにとっては宗教みたいなものなので、真偽はもはや関係なかったのかも。明治末年頃から、熊沢大然たちは歴史学会に照準を定め、熊沢家がらみの史跡を皇室の史跡として認定してもらうように運動を繰り広げるようになります。
ただし相手が政治家ではなく専門の学者ですと、家系図の不備は致命的で、門前払いをくらうのがオチでした。ところが明治39年(1906年)、歴史学会からお墨付きを得ることは諦め、熊沢家のお手製ですが「調査書」を添付した「皇統認定の請願書」を、複数の華族たちの推薦と共に、帝国古蹟調査会なる団体に提出するというように熊沢大然たちたちは運動の方向性を変えることにしました。「推薦者」の中には、千家尊光(せんげ・たかみつ)男爵もいました。
千家といえば、出雲大社の権宮司(ごんのぐうじ)を代々務めるお家柄で、平成26年(2014年)には高円宮家の次女・典子さんが嫁がれたことで一躍有名になりましたね。
――セレブリティたちをも取り込んじゃったんですね。