「民間から皇族へ!」“ニセ天皇”一族、セレブリティを巻き込んだデタラメ“家系図”【日本のアウト皇室史】
皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!
――前回から「偽天皇」について、お話をうかがっています。ここからは、たくさんいた「偽天皇」の中でも特に人気の高かった“熊沢天皇”こと熊沢寛道について、深掘りしていきたいと思います。まず、寛道の養父にあたる熊沢大然はどうして「民間から皇族へ」という見果てぬ夢を見るようになってしまったのでしょうか?
堀江宏樹(以下、堀江) 明治の末頃、熊沢大然は、熊沢一族に受け継がれてきた「伝承」に魅了されてしまったのです。それは「熊沢家は南朝の正統後継者であった、とある宮様の直系子孫であり、世が世であれば、天皇家になれていた」……という言い伝えです。
ちなみに現在の天皇家は「北朝」の直系子孫にあたります。また、大日本帝国では、朝鮮や琉球の王族が日本の皇族と同等に扱われる例がありました。熊沢家に伝わる家系図のとおり、彼らが「南朝」の直系子孫であるとするなら、自分たちも皇族もしくは「準皇族」的な存在にしてもらえるのではないか……という野望をもってしまったとしても、致し方ないかもしれませんね。
明治3年12月7日には、熊沢一族の中でも総本家などの8名が、請願書を明治政府に提出します。国のカネで熊沢家が南朝の正統後継者であると調査し、家に伝わる言い伝えが真実であると公認してほしいということでした。
――えぇーっ。そんな運動を明治時代にやっていたのですか!
堀江 戦前の日本には皇室に対して、失礼な行為をすることが犯罪となる、いわゆる「不敬罪」というものがありましたからね。北朝の子孫である皇室に、南朝の正統後継者を自称する熊沢家が、自分たちの正当性を認めてくれと迫る行為は、常識的に考えて、かなりリスキーでした。南朝のほうが、北朝よりも「正統」という考えもあったからです。
ただ、当時の宮内大臣・田中光顕(たなか・みつあき)は「史料不備」を理由に、熊沢家の要請を却下したのでした。国が調査に乗り出すための正統性が、史料からはうかがえない。つまり、史料が揃っていないという意味で「不備」……これが何を指すかわかりますか?
――え……いったいなんでしょう?
堀江 その話の前に、当時の熊沢家から国に寄せられた「主張」を整理しておきましょう。この時点では「私(たちの誰か)を天皇にしてくれ」とかではないのです。「ウチの家の先祖が眠る古い墓を宮内庁の管轄にしてくれ」とか、「その程度」ではありました。
しかし、こうした熊沢一族による請願の影には、それによって皇族に準ずる扱いくらいは受けたいという野望は絶対にあったと思いますよ(笑)。わざわざ資金と手間暇を投入して、宮内大臣・田中光顕に直訴するくらいですもん。
ただね、田中大臣のいう「史料不備」の意味が問題なんですね。これをハッキリいっちゃうと、「あなた方の系図は偽物ですよ」ということです。
――ええっ! 偽物なんですか?