大正天皇は“変わり者”か? それとも“お茶目”か? 女官たちが語る「遠眼鏡事件」【日本のアウト皇室史】
――山川三千子は、『女官』を読む読者にわざと異様な印象を与えるように、情報操作していると考えてもいいのでしょうか?
堀江 僕はそう思います。そもそも、彼女が宮中の秘密を公開してはいけないというタブーを破り、昭和35年(1960年)になって回想録『女官』を書いたのは、彼女自身が「汚名返上」したかったからではないでしょうか。
「大正天皇の愛人だった」と世間から言われつづけた自分の評価を覆すべく、「いくら相手が天皇だからといって、言い寄られたところで、私がなびくわけもない!」と主張したかったのでは? 女官を退官後、彼女は武蔵高校・武蔵大学などで重職を勤める男性の妻となり、いわゆる名士夫人として知られるようになりました。だからこそ、世間から痛くもない腹というか、「過去」を探られるのが心外だったのでしょうね。
――なるほど。このナンパエピソードの書き口は山川さんの名誉のために書かれたのかもしれないんですね。では実際の大正天皇の人物像について、堀江さんはどのような印象を持っていますか?
堀江 大正天皇は、非常に聡明な方なんですよ。外国人が苦手だった明治天皇に比べ、大正天皇は国際派。当時の政治・経済・文化の世界で第一公用語だったフランス語にも通じておいででした。しかも、見たもの、読んだものをたちどころに記憶していくという特殊なまでの力がおありでした。
ご病弱ではありましたが、気持ちはしっかりとしていて、多少の体調不良くらいでは「風邪と言うなよ」、つまり、風邪扱いしてくれるなよといって、公務をなさる方だったんですよ。これを聡明といわずして……と思うのですが、どうでしょうか。
聡明で思い出したけど、大正天皇が帝国議会に出席なさった時、「勅語」つまり、ご自身の「おことば」の原稿の紙を丸め、望遠鏡のようにしている姿を見せた……などの逸話がありますよね。ご聡明とは程遠かったのでは?というような失礼な風説が、今日に至るまで伝わっています。
歴史的には「遠眼鏡事件」などと専門用語化しているくらいですが、そういうことがあったとされる時期やシチュエーションにも諸説がある状態です。
――諸説とはどのような?
堀江 たとえば、この事件が起きたのは最初に議会に出席した時というのが山川三千子説ですが、ほかの女官は何回目かの出席の時だったと断言しています。いろいろな説があるため、一種の都市伝説では? というような声もあるのですが、そういう天皇の行為は本当にあったと僕は考えています。それも何度もあったのでは、と。
実は大正5年くらいから、大正天皇には言語障害のような症状が多発しはじめます。大正時代の医学は、現代よりもだいぶ劣っているので、正確な病名はわかりません。当時はただ「御脳病」などと公表されていました。だからこそ、ウワサに尾ひれがついて、大正天皇は「深刻なご病状」ではないか……なんていう声もあった。
少なくとも、スピーチ原稿で遊んでいるように見える姿を、謹厳実直な明治天皇だったら絶対に見せたりはしませんよね。だから、臣下が必要以上に仰天してしまった、と。
山川三千子の婚家である山川家でも、大正天皇の「遠眼鏡事件」が、深刻に語られていたという記述が『女官』には出てきますね。山川三千子はその場で大正天皇の擁護すらしないのがまたアレというか、彼女らしいのですが(笑)。
一方、その山川三千子とほぼ入れ替わりのように、大正時代の宮中で女官を勤めていたのが、大正天皇が「写真、以後、くれね」という独特の言葉遣いで話していたと証言した坂東登女子です。大正天皇も「遠眼鏡事件」について世間で悪く言われていることを知り、気になさっていたと彼女の回想録『椿の局の記』の中で語っています。