明治天皇の”スペオキ”女官は「口ベタなとこが逆にいい」!? 女の嫉妬渦巻く宮廷の側室【日本のアウト皇室史】
――山川三千子さんは、明治天皇からはどう扱われていたのでしょうか?
堀江 そもそも彼女が並み居るライバルを押しのけて採用されたのは、明治天皇の鶴の一声でした。あまり口が達者ではなかったところが逆に天皇には好印象だったようです。
それだからといって明治天皇から言い寄られるようなこともなく、純粋によい主従関係だったようですね。山川三千子によると、明治後期の頃は高等女官の私室である「局(つぼね)」に、明治後期の頃、明治天皇がこっそり出かけるなんてことは、絶対になかったとのことです。
ところが、別の女官の記録によると、むかし明治天皇の権典侍だった女性……たとえば、大正天皇の生母である早蕨典侍(さわらびのすけ)こと柳原愛子さんなどは、明治天皇から事あるごとに手招きされ、ものかげに呼ばれてちょっとした贈り物を渡されている姿が目撃されていたそうです(『椿の局の記』)。
一方で、山川三千子は明治天皇夫妻の大ファンでしたが、それは明治天皇がダンディなのに、女性関係には(すくなくとも当時は)「清潔」だった点が、彼女の最大の萌えポイントだったみたいですね。明治天皇が「早蕨(さわらび)」こと柳原愛子に贈り物をしている姿について言及しているのは、山川の後輩女官で、「椿の局」といわれた坂東登女子という女性です。先輩にあたる山川三千子がそういう天皇の姿を見ていないはずもない。しかし、そういうのは清潔な明治天皇のイメージを損ねると彼女は思ったから、書かないんでしょうね。
ほんとに清潔すぎて、昔から情愛を示すようなことが何もなければ、明治天皇には皇子も皇女もお生まれにはなってはいないのですが(笑)、そこらへんについて山川三千子はいっさい触れません。そんな山川三千子ですが、大正天皇夫妻には非常にシビアな目を向けているのです。
――山川さんは、大正天皇から好意をほのめかされたのですか?
堀江 はい。でもその時、彼女はかなりはっきりと大正天皇の好意を退けているのです。大正天皇(正確には当時はまだ皇太子ですが、今回はわかりやすいように、大正天皇とお呼びします)との「出会い」は、明治45年(1912年)7月30日の明治天皇崩御の後におとずれました。
大正天皇は当時、まだ青山御所にお住まいでしたが、皇居にご出勤なさるようになられていました。廊下ですれちがった山川三千子に、大正天皇が「まさかのお声がけ」をなさったというのです。