明治天皇の”スペオキ”女官は「口ベタなとこが逆にいい」!? 女の嫉妬渦巻く宮廷の側室【日本のアウト皇室史】
皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!
――明治天皇は、原則的に、同時期に複数の女官を側室にはしなかった。それが後宮の暗黙の掟掟として存在していたのでは、というお話を前回伺いました。新しい側室ができるということは、前の側室はクビになるということですよね……。
堀江宏樹(以下、堀江) そうですね。理由はさまざまですけど、天皇と女官の話し合いで側室としての進退は決まるみたいですよ。たとえば、大正天皇のご生母となった柳原愛子(やなぎわらなるこ)は、明治6年(1873年)に、明治天皇の権典侍になりました。そして彼女は明治12年(1879年)、のちの大正天皇となる明宮(はるのみや)親王を幸運にも授かります。
しかしそれまでに、二人のお子さまが夭折する悲しみも味わいました。また、「産後の肥立ちが悪い」などの理由で、明宮親王誕生後は、権典侍の職を辞退……つまり側室を辞めさせてほしいと明治天皇に訴え、その願いを叶えられました。
妊娠・出産にダメージを感じやすい体質の話もありますが……もしかしたら、同僚の女官から、妬まれたりするのがイヤだったのかも。しかし、側室のお役目を辞退した後も柳原愛子と明治天皇の仲は、天皇が晩年になっても良好で、親密ですらあったようです。ちょっとした贈り物を、ものかげに呼び出して柳原愛子に明治天皇がお渡しになる姿が目撃されています(坂東登女子『椿の局の記』)。
明治天皇は、ほんとうに仲が良い女官には女官名とは別に「あだ名」を与えるクセがあり、柳原愛子は「ちゃぼ」と呼ばれていました。側室たちの中では、数少ないケースです。ま、「ちゃぼ」とは観賞用の小型のニワトリの品種名であろうと推測され、普通の仲の良さでは相手から嫌がられてもしかたありません。それを普通に受け入れてしまう柳原愛子と明治天皇は信頼関係はとても深かったのでしょうね。
――それは女官たちもザワついてしまいますね。楽ではなかったという女官生活、争い事の記録などはないのですか?
堀江 明治41年(1908年)から25年間、御内儀に出仕する男性役人「仕人(つこうど)」として勤めた小川金男という人が「昔は(略)廊下に蛇を投げ込んで、気に喰わぬ相手の女官に悲鳴を上げさせた」という宮中に伝わっていた逸話を書いています。
ウワサの類が語り継がれたもので、それが生じた時期は定かではないにせよ、明治天皇がより女性関係にアクティブだった明治初期のお話でしょうか。さすがに蛇が廊下にいるのは見ていないにせよ、小川金男は女官同士が大声で相手の悪口を言い合っている姿をよく見たそうですよ。
――口ゲンカですか!?
堀江 それが微妙に違うんです。女官たちは大嫌いな相手がいま、そこにいることをわかった上で、あえて素知らぬ顔をして、大声をあげて相手に聞こえるように「あの女は、こういう理由でほんとに気に食わないわ!」などと罵るのだそうです(笑)。それが何度も何度もあったそうな(小川金男『宮廷』)。
天皇ではなく皇后と、ある女官が「親密」に見えても、別の女官たちからは激しく嫉妬されてしまいました。山川三千子が『女官 明治宮中出仕の記』(講談社)で語るところによると、皇后陛下と仲良く話をしているところを見られてしまうと、「新入りのクセに、皇后様に取り入るなんて末恐ろしい女だこと!」などと先輩女官からネチネチ言われたそうです。それこそ蛇のような執拗さでお互いを監視しあっている女社会の闇ですね。