ベテラン万引きGメンが尊敬してやまない大先輩、「催事のスペシャリスト・敬子」の思い出
「お客様、お待ちくださいませ。お支払いしていただかないといけないものがございます」
高級店における声かけだからか、不自然なほど丁寧な口調になってしまい、それを聞いた敬子さんも笑いを堪えているように見えました。
「これのことですか? 混んでいたので、あとで払おうと思っていたんです。いま払いに行きますね」
ショルダーバッグから、隠した財布を取り出してみせた彼女は、意味不明な言い訳をしてホテルに戻ろうと歩き始めます。すっかり動揺してしまい呆然としていると、ショルダーバッグのハンドルを咄嗟に掴んだ敬子さんが、有無を言わせぬ威厳のある態度で彼女に言いました。
「あなた、そんな言い訳は通らないわよ。わかっているでしょ?」
「はい、ごめんなさい……」
思いのほか強烈だった敬子さんの迫力に、すっかりたじろいだ様子の彼女は、事務所までの同行を求めると素直に応じてくれました。
「今日は、どうしたの? なにか、嫌なことでもあった?」
「ちゃんと買うつもりで来たんですけど、お金を使うのが嫌になっちゃって……」
スナックの雇われママを生業にしているという彼女は、29歳。お母さんのように話しかける敬子さんに、すっかり心を開いているように見えます。事務所に到着して、テーブルの上に盗んだモノを出してもらうと、高級財布のほかに、ネクタイピンとカフスもショルダーバッグから出てきました。全て3つずつ盗んでいるので、その理由を尋ねれば、複数の馴染み客にプレゼントするつもりだったと話しています。盗んだ商品は、いずれも高級品で、被害総額は15万円を超えました。被害届が出されれば、逮捕必至の状況にありますが、お店側は買い取ってくれればいいという姿勢でいます。どうやら会場がホテルということもあり、警察沙汰を起こしたくないというのが本音のようです。商品を買い取れるだけのお金を用意できるか尋ねると、20万円以上の現金を所持していたので、警察は呼ばずにコトを済ませることになりました。敬子さんと2人で、被害品の精算を済ませた彼女を店の外まで見送り、帰りの道中に話を聞きます。
「あの人がやるって、どうしてわかったんですか?」
「目よ。どう見たって、買い物する目じゃなかったでしょう?」
「確かに……」
催事のスペシャリスト、敬子。職員の間で敬遠されるほど厳しい現場で、数々の高額品狙いを捕捉してきた敬子さんは、65歳で引退され、82歳でご逝去されました。最後にお会いした時には、随分と認知症が進んでおられたようで、私のことを孫と勘違いされ、とても優しくしてくださったことを覚えています。晩年は、警察や万引きの実録番組を楽しみに過ごされたそうで、その時に限って饒舌になられたと、娘さんから聞きました。おそらくは、人生の大半を費やしたであろう自分の仕事に、誇りを持っておられたのでしょう。
(私も、そろそろかしらね……)
1日の勤務を終えても疲れを感じさせないほど、軽快な足取りで歩く新人さんの背中を見送った私は、迫りくる自分の終末を意識しました。次のお休みは、亡き敬子さんの墓前に伺い、お花を供えたいと思います。
(文=澄江、監修=伊東ゆう)