天皇に仕える女官は “プロ彼女”? 「お世継ぎ」「添い寝」と女の争い【日本のアウト皇室史】
――そんな明治天皇は、お肉がお好きだったと聞いたことがあります。女性関係でも相当な「肉食」でいらっしゃったのでしょうか。
堀江 いや、それがね、明治天皇はモテモテなのに、真面目でいらっしゃるんですよ。
明治天皇のご生母は中山慶子(なかやまよしこ)という女官です。彼女は、明治天皇にとって父君にあたる孝明天皇の典侍でした。『女官』によると、中山慶子典侍は、明治天皇が女官の誰かを側室にしなきゃという時に「いくら天皇さまだからといって、御自分の御勝手ばかり遊ばしてはいけません。こういうことは本人(=女官)も得心の上、これと(天皇が)お定めになった人以外に召されることは断じてございませんように」と“御忠告”なさったのだそうです。要するに同時並行で複数の女官を側室にするな! ということですね。モラルを問いたのでしょう。
それでも、実際に同時複数妊娠発覚みたいなパターンが1度だけありました。それは明治天皇が20代になったばかり、つまりごく若い頃のお話。詳しくいえば明治6年(1873年)頃に典侍だった葉室光子と橋本夏子のケースですが、2人とも子供は死産、ご本人も亡くなってしまっています。
その後の明治天皇ですが、お子さまの生まれ方を見ていると、1人の女官とのみ、ある時期まで集中的に関係を持ち、子どもを授かっていくというのが常道だったようです。ただ、そういうルールがあったところで、女官同士の争いは隠然と存在していたようで、明治天皇ご本人がこういう御製(=天皇の和歌)を作って、女官たちに自粛を求めていますね。
「むつましく 枝をかわせて 咲く梅も さかり争う 色はみえけり」一見、仲良さそうに咲いている梅の花々にも、お互いをライバル視して争う気配が感じられるものだ。女官同士、仲良くしてくれよ、とでも意訳しておきましょうか。天皇の後宮のことを昔から「御内儀(おないぎ)」と呼びましたが、御内儀生活は楽ではありませんでした。
次回は、2月8日更新予定。天皇に“言い寄られる”女官についてお話したいと思います。