夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった――戦後初のバラバラ犯となった女【荒川バラバラ殺人事件・後編】
しかし、胴体を包んでいた新聞紙の中に、富美子が前年4月まで住んでいた大阪府守口市の配達区域で配られるものと同一のものがあった。加えて、自宅の家宅捜索が行われた際、押し入れの襖やカーテンに残された血痕を警察官に発見される。こうした証拠を元に追及を受け、あっけなく犯行を認めたのだった。それまで押しかける報道陣などに「失礼ではないか?」と追い返し、家宅捜索では6畳間に長々と寝そべったまま捜査員を見回していた母シズも、一緒に連行された。
1時間だけでも慰安の場所がほしかった
戦後初のバラバラ殺人事件であること、犯人が女性であることから、本事件は報道が過熱し、法廷では富美子の過去の男関係も事細かに明らかにされた。
「実はこの頃(編注:伊藤に結婚を申し込まれた時)富美子は大阪で同僚の教師の、しかも2人とセックスがらみの付き合いを繰り広げていた。(略)富美子は『性格がさっぱりしている』ということで男性教師に人気があった。そんな中から彼女は、ウブで若いHを選んで、自ら足を開き、『こうするのよ』と男のものを肌にあてがって合体させてやったりしていたのだった。(略)自分に気のある男を手玉にとって弄ぶのは、さらに大好きだったのだろう。証言によると富美子はHに結婚を申し込んだのだったが、そう言いながら別の教師と付き合っていることを知っていた彼は断った……」
富美子はそれに対し、手記でこう述べる。
「私は今、裁きの庭に立っています。世の人は私のことを『冷酷無情な女』『血も涙もない悪魔』と、ありとあらゆる罵倒の言葉を浴びせかけています。私にはもちろん反駁する資格はありません。しかしこれだけは言いたいのです……私と言う女は友達から身の上の相談を受けても、遊び相手には不向きな女でした。内気。悪い言葉で言えば陰性な女であるかもしれません。しかし他の女性と同じように、幸福でありたいという気持ちには変わりはありませんでした。もっと具体的に言えば、教員という職業柄、自分の存在が値打ち以上に社会から評価されているアブノウマルな環境から、1時間でもいいから解放されたい。その慰安の場所を、私は夫との生活にだけ求めていたのです」
警察官と教師、公職につくものだからこそ事件を隠し通したかったのか。教師という職業柄、のしかかるプレッシャーからひとときでも解放されたいという思いで一緒になった伊藤に冷たい仕打ちを受け、絶望したのか……。富美子にはのちに東京地裁で無期懲役を求刑されたが、懲役12年の判決。栃木刑務所で服役中に皇太子(当時)結婚特赦のため、7年間の服役で出所した。母シズは、死体損壊罪で1年6月の判決(求刑・懲役3年)を受けたが、事件の年の暮れに、東京拘置所で死亡した。
(高橋ユキ)
(参考文献)
昭和27年6月1日号 「週刊サンケイ」
昭和27年10月5日号 「週刊サンケイ」
1960年10月28日号 「週刊スリラー」
1991年1月3日・10日合併号 「週刊文春」
2000年3月23日号 「週刊実話」
2002年9月22日号 「サンデー毎日」
2004年7月号 「現代」