『ぱくりぱくられし』著者・木皿泉インタビュー

「ケーキもイケメンも小さな物語。今こそ物語が必要」脚本家・小説家、木皿泉インタビュー

2019/09/08 18:00
サイゾーウーマン編集部(@cyzowoman
『ぱくりぱくられし』(紀伊國屋書店)

 『すいか』『野ブタ。をプロデュース』(ともに日本テレビ系)、『昨夜のカレー、明日のパン』『富士ファミリー』(ともにNHK)など、熱狂的なファンを生んできたドラマの脚本家・木皿泉。放送から十数年という時を経ても、いまだにファンイベントが開催されるほど、その世界観は支持され続けている。そんな木皿泉の新作は、エッセイ集『ぱくりぱくられし』(紀伊國屋書店)。『すいか』に通じる幻の処女作『け・へら・へら』をはじめ、産経新聞などでの連載を収録した作品だ。「木皿泉」とは、妻鹿年季子(めがときこ)と和泉務(いずみつとむ)による夫婦共同執筆で用いられるペンネームだが、今回は妻の妻鹿氏に、処女作執筆時の思いや、現在の女性や人々の抱える“苦しさ”、ひいてはフィクションが持つ力について語ってもらった。

「木皿泉」の一人、妻鹿年季子さん

――デビュー作の『け・へら・へら』は昭和62年の作品とのことですが、今の女性もハッとさせられるフレーズが飛び交っていました。元同僚の女性2人が婚活を名目に逃避行する物語を、当時、どのような思いで書かれたのですか?

木皿泉氏(以下、木皿) その頃は、「女の人はこうあるべきだ」みたいな世間からの締め付けが、すごくつらい時代だった。今でこそセックスって、ちょっと安くなっちゃったけど、セックスというもの自体に高値がついていたというか。処女が偉いとか価値があるとか、そういう時代。いつの間にか知らないうちに、自分に値段がついちゃってる感じが、今よりも強かったのかなと思います。これを書いている時は、親が期待している「良き花嫁」みたいなものと、自分との間にギャップを感じていたし、会社で働いていても、いわゆる「OL」と自分は違う。そういうギャップが、すごくつらかったんです。

――適齢期になったら処女のまま結婚して、仕事は辞めるのが正しい、みたいな時代ですね。

木皿 私が内側から見ている自分や、私が求めている自分の姿と世の中が求める自分は違うんだけどなって思ってたんですよ。だから昔は、「自分探し」みたいなのがはやったんですけどね。でも結局、母にしてみたら、そんな小難しいことよりも、「平凡でもいいから、普通に結婚してくれたらいいのに」と。勤め先の会社からしたら、チャチャッと仕事を能率よくやってさえくれればいい。でも、そういうふうに思われていること自体が、私以外のところで自分に価値を付けられているようで嫌だった。私の価値は私がつけたい。一言で言えば、自分の稼いだお金でおいしいものを食べたりとか(笑)、そういうことをしたかったんじゃないのかなって思います。


――自分探しというと、その後しばらくしてから「等身大」という言葉が出てきましたよね。

木皿 はやりましたね。等身大ってコトバ。昔は見栄を張るのが当たり前だったから。でも、今の人たちはみんな等身大なんじゃない? さっきの話の続きになるけど、80年代は内需拡大で物を買わなきゃいけないっていう時代。バブルがあって、自分を実感よりも大きく見せなきゃいけないみたいな、結構、無理していた時代ね。自分の価値をちょっと大きく、それこそ見た目から大きく、強く見せる。だって、肩パットが入っている服を着てたんだから(笑)。

 そういえば、80年代に絶対に買いたくないって思ってたシャネルのネックレスがあって。イケイケでバブリーな人が身につけるような、大きな鎖があったの。フリーハンドで描いたような花の形のものがついたネックレスなんだけど、なんかパワーがあるんですよ。今の時代、逆に面白いなと思って、最近買ってみたのね。それを身につけると、ちょっと自分が偉くなったみたいな気分になる。等身大とは反対に、ちょっと偉そうな感じで歩けるから面白いんですよ(笑)。

――自分を大きく強く見せるために、着るもので気持ちをつくってたんですね。

木皿 ただ、そういう物を身につけていた時代なので、結構無理していたんじゃないかな。この姿は嘘の自分じゃないか? 自分が考える本当の自分は? みたいなものを探していたから「等身大」みたいな言葉がはやったのかなって思いますね。


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