ODや病気、交通事故に射殺……悲劇の死を遂げた人気ラッパーを振り返る!
1971年5月27日、ペンシルベニア州フィラデルフィアにリサ・ニコール・ロペスとして誕生。父親は米軍曹で、サクソホーン、ピアノ、ハーモニカ、クラリネットなど楽器演奏が得意で、音楽にどっぷりと浸かりながら育った。5歳の時に子ども用のピアノで初めて作曲したという。10歳になると、妹、弟とともにバンド「ロペス・キッズ」を結成して教会でゴスペルを披露し、音楽スキルを磨いていった。音楽の素晴らしさを子どもたちに教えた父親だが、アルコール依存症で家庭内暴力もひどく、母親とくっついたり離れたりを繰り返し、レフト・アイは落ち着かない環境で成長した。
19歳の時、当時交際していた恋人から「アトランタでガールズグループのオーディションがあるから、受けてみたら」と勧められ、同地に移住。見事合格し、トリオグループ「セカンド・ネイチャー」の一員となった。グループ名はすぐに、メンバーの愛称、T-ボズ、レフト・アイ、チリの頭文字をとって「TLC」に変更され、92年発売のデビューシングル「Ain’t 2 Proud 2 Beg」、セカンドシングル「Baby-Baby-Baby」が大ヒット。元恋人から「左目がかわいい」と褒められたことから、「レフト・アイ」という愛称がつけられた彼女は、メガネの片方のレンズにコンドームをつけてセーフ・セックスを呼びかけるなど、「前衛的なスタイル」で若い層から人気を集めた。94年にリリースしたセカンドアルバムは全世界で1,100万枚売れ、世界一のガールズグループとして君臨。グラミー賞も獲得した。
名声を得たレフト・アイだが、父親同様、アルコール依存症に陥る。そして父のようなDV気質の男性に惹かれるようになり、嫉妬深く暴力的な性格だとされるNFL選手アンドレ・リソンと交際。ケンカを繰り返すようになり、94年に殴られた腹いせに彼のスニーカーを燃やしたところ、火の手が回り、アンドレ豪邸はほぼ全焼。刑務所入りは逃れたが、5年間の保護観察を命じられてしまった。
スキャンダルは翌年も起きる。レーベルとの契約上、TLCの手元にはほとんど収入が残らないというカラクリになっており、借金で首が回らなくなり、95年にメンバー3人そろって破産法適用を申請するハメになったのだ。
TLCは休止状態となり、レフト・アイはリル・キムとのコラボ曲「Not Tonight」(97)をリリースするなど、ソロ活動を行う。しかし、爆発的なブレイクとはならず、99年に発売したアルバム『No Scrubs』で、T-ボズ、チリと共に完全復活を遂げた。しかし、レフト・アイは2人と意見が合わなくなり、単独で行動するように。人気歌手とコラボしたり、授賞式の司会者を務めたり、国民的クイズ番組に出演したりと、積極的に活動。ソロアルバム『Supernova』を制作するが、レーベルの判断でアメリカではリリースされないことに。激怒した彼女は「N.I.N.A.」名義で、悪名高いデス・ロウとソロ契約した。
02年4月25日、心身の休暇のために訪れた中米ホンジュラスで車を運転中、木に衝突。頭部を激しく損傷し、死亡した。
07年、30歳の若さで亡くなった彼女の最期の27日間を追うドキュメンタリーが放送され、亡くなる直前に受けたセラピーで、「(悪い)スピリチュアルに追いかけられている」とおびえる姿が映された上、ホンジュラスで男の子を轢き殺したことが明かされ、大きな反響を呼んだ。
イージー・E
1963年9月7日、カリフォルニア州コンプトンにエリック・リン・ライトとして誕生。全米屈指の犯罪地区だったが、父親は郵便局員、母親は小学校の理事を務めていたため、家庭は比較的まともだった。しかし周りの環境が悪かったため、12歳で女性を覚え、13歳の頃からストリートで悪い遊びを覚えるようになり、イージー・Eという愛称で呼ばれるように。自然な流れでストリートギャング「ケリー・パーク・コンプトン・クリップス」の一員となり、大麻を売りさばいていたいとこを見習って、麻薬売人へと成長していった。
ガレージで大好きな音楽をレコーディングするようになったイージーは、高校1年生で学校を中退。麻薬売人として荒稼ぎし、22歳になる頃には貯金が25万ドル(約2,700万円)もあったという。しかし、薬物売人への道に引きずり込んだいとこが射殺されたことで、足を洗おうと決意。稼いだ大金をもとに、音楽業界に精通しているジェリー・ヘラーという白人とタッグを組み、ルースレス・レコードを設立。86年、ラッパーとして一旗揚げようとしていたドクター・ドレー、アイス・キューブと共にヒップホップグループ「N.W.A.」を結成。翌年、DJ・イェラ、MC・レンを迎え入れ、88年に発売したデビュー・スタジオアルバム『Straight Outta Compton』が爆発的にヒットし、西海岸の象徴とされる“ギャングスタ・ラップ”を確立した。
人気・活動共に順風満帆に思えたが、契約においてイージーのギャラの取り分が多いことに不満を抱いたアイス・キューブとドクター・ドレーが、相次いでグループを脱退。以来、3人は互いをディスる曲を制作し、至る所でののりし合うなど、ビーフを展開するように。
ネガティブなイメージを嫌うイージーは、ビーフ騒動の傍ら、ラジオ番組の司会をしたり、国民的コメディ番組『イン・リビング・カラー』に出演したりと、新しい分野での活動を行うようになる。しかし、95年、突然呼吸困難に陥って入院。ぜんそくだろうと軽い気持ちで検査を受けたところ、エイズの発症が判明し、同年3月17日にHIV陽性だと告白して全米に衝撃を与えた。
診断を受けた1カ月後の26日に、エイズによる合併症で死去。金の棺桶に、トレードマークだった、ジーンズにフランネル・シャツ、コンプトンのロゴ入りキャップをかぶった姿で納められ、埋葬された。まだ31歳だった。
6人の女性と7人の子どもをもうけたイージーは、エイズ末期に2人目を妊娠中だった交際相手と結婚。妻も子どもたちもHIVには感染していなかった。イージーがどのようにしてHIVに感染したかは、今なお判明していない。