天理教「潜入」2泊3日、“私”の信心が「急激に冷めたワケ」――理想と“俗世”のはざまで
ちょっと、待って。みんな、同じようなことしか書いていません。
わたしは、発言小町の常連相談員並みに、相手のパーソナルに寄り添って、良き癒やしとなるような、言葉を綴ったのに。
ですがみんなは、「天理教に信仰心を持て」と言うのみ。
ふと、別の班から、こんな声が聞こえてきました。
「友達が体調を悪そうにしているとき、“おさづけ”をしたいんだけど、今までできなかった。でも、みんなとここで話すうちに、“おさづけ”してもいいかも、と思えるようになった。ありがとうみんな!」
「わかるよ。“おさづけ”したいけど、なかなかやりにくいもんね。でも大丈夫。きっと相手もわかってくれるから」
忘れていました。ここは、天理教の後継者の信仰心を再確認&再構築する場である、ということを。素人のわたしがいくら、発言小町の常連相談員のようになっても、誰にもなにも響かないし、はなから趣旨が違ったのです。
俗世に引き戻された「立ちバック」
ああ、恥ずかしい。一生懸命書いた自分が、バカみたい。せっかく仕上がった天理教への思い入れが、徐々に冷めゆくのを感じました。ああ、乙女心と秋の空。さらに帰りの車中、夫から聞いた話で、その傾向がさらに加速するはめに。
「男子部屋では、毎晩飲みながら天理教の愚痴を言っていたよ。次期真柱様候補の結婚式が豪勢すぎたことに対する批判とか」
「昔、修養科(修行期間のこと?)で、講義室の裏で立ちバックしている人がいたんだってさー」
「そういう期間は一緒に過ごす時間が長いから、みんな、くっついたり離れたりのビバリーヒルズ(高校白書)状態だったんだって」
昨日までは、「東京に戻って、通勤ラッシュ時の駅構内で人にぶつかっても、『ごめんなさい。おけがはありませんか?』と口角を上げて微笑めるくらいになってやる。それも、この出会いに感謝しながら。ゴミとかも積極的に拾うんだ。わたしは、心清くなるんだ」と、本気で思っていたのに、いっきに俗世に引き戻されました。
それにしても、校舎裏で立ちバックて……! まあそりゃあそうか。天理教信者も校舎裏で立ちバックくらいするか。
さて、帰宅した翌日の朝ごはん。子どもと食卓を囲んでいたときのこと。おもむろにすっと目を閉じ、手を合わせ、パンパンパンパンッ! と4回手を打ったかと思うと、こう言うではありませんか。
「おやがみさまにかんしゃして、いただきます」
言い終え、「ちゃんとできたでしょう?」とばかりに、にっこりとこちらに笑いかけます。きゃーん、かわいいー! ……なんて思うわけないじゃないですか。大人のわたしが仕上がりかけたのですから、吸収力抜群のスポンジ状態の子どもが3日間刷り込まれたら、まあそうなるよね。なんとなく、「保育園では言わないでほしいなあ」と、後ろめたさを覚えてしまったことで、やっぱりわたしは俗世の人間なんだなと思い知るに至りました。
世の中には、2種類の人間がいると思うんです。自分の信じるものを、良かれと思って他人にも説き薦めることができる人間と、そうでない人間が。わたしは後者で、たとえ信じるものがあっても、病気で寝込む友達におさづけできないと思いますし、「これまじいいから。おすすめ。ぱきっとなるよお」と回らぬろれつでシャブを勧めることもできないのです。