『「女子」という呪い』著者・雨宮処凛さん×『介護する息子たち』著者・平山亮さん対談(前編)

男女の“生きづらさ”の違いとは? 「共に被害者」という主張が強くなっているジェンダー論

2018/06/25 15:00

「どっちがつらい合戦」をやっても意味がない

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雨宮処凛さん

――平山さんは著書の中で、男性の生きづらさと女性の生きづらさは比較できるものではないと書かれています。この点について、詳しくお聞きしたいです。

平山 多分、自分の意のままにならないことをなんでも「生きづらさ」と言ってしまって、「生きづらさ」という言葉を乱用している人が一部いるんです。社会が求める「男性は家族を養ってナンボ」という男らしさの規範を達成できないことを「生きづらさ」と言っている人がいますが、家族を養ってナンボという規範をよく考えてみると、要は「家族を自分の支配下に置かせたい」ということです。

 だとすると、例えば男女の賃金格差がはっきりあって、男性と比べて女性が1人で生きていくのが難しいという生きづらさと、男性が家族を養ってナンボという規範を達成できないままならなさというのは、少し違っています。生きづらさという言葉が幅広く受け取られることによって、本当は一緒にしてはいけないものまで一緒にしている人がいるということを私は危惧しています。最近のジェンダー論では、「男性も女性も共に被害者である」という主張が、わりと強くなっているように感じます。

雨宮 男女とも被害者であると訴えるほうが、多くの人から支持を受けますよね。

平山 雨宮さんは、そのような傾向をどう考えてらっしゃいますか?


雨宮 この本を出した際のイベントでお客さんに接したとき「男のほうがつらいんだ」とか「男のつらさもわかってくれ」という意見は多くいただきました。でも、そうやって言える男性はまだいいと思います。確かに、男性は、男性にしかされないハラスメントを受けることもあります。例えば上司にキャバクラや風俗への同行を強要される、大量の飲酒を強いられる、上半身裸になるなど宴会芸をさせられたり、靴に注いだビールを飲ませるという会社もありました。本人からすると死ぬほどつらいのに、みんなが笑っているからその空気を壊せない。宴会芸などを喜んでやる男性も中にはいますが、本当につらい人でも「男らしくない」「男のくせに」と黙らされてしまいます。

 とても雑な言い方をすると、男性に求められているものは「働け、稼げ、以上」という感じがします。女性の場合はいろんな道があるからこその生きづらさですが、男性は働いて賃金を獲得しないと生きる価値がないということが前提になった上で、ひとつしかない道の生きづらさです。ひきこもりに男性が多いのも、そのことと関係があるでしょう。だから、生きづらさにおいて比較はできません。「男だってつらいんだ」という反応が来るのはわかりますが、「どっちがつらい合戦」をやっても絶対に答えは出ないでしょうし、それはあまり意味がないことだと思います。

平山 先ほど雨宮さんがおっしゃった、男性にしか起こらないハラスメントのお話で思い出すのが、私の個人的な体験です。私は全然覚えていないのですが、初めて幼稚園に行って帰宅したとき、親に「怖い」と言ったそうなんです。男の子たちは普通に遊んでいるように見えるのだけど、実はすごくお互いを牽制し合って、自分のほうが上であると誇示しようとしていたことを「怖い」と言ったようです。遊びモードの中で相手を抑えつけることが普通に行われていて、笑いに変えてしまっているところがあるので、男性のハラスメントは見えにくいです。

雨宮 平山さんの著書『迫りくる「息子介護」の時代 28人の現場から』(光文社新書)の中で、弱音も含めた介護の話ができる男性同士の友人がいる人もいれば、全くいない、逆に男友達に会うと惨めに思えて傷つくという人もいると書かれていましたよね。なんかすごくわかるというか、親戚のおじさんなんかを含めた年配の男性の会話を見ていると、「俺のほうが偉いんだ」という競争ばかりで、かわいそうになるくらい貧しいコミュニケーションだなと感じます。

平山 コミュニケーションが貧しいし、独り言合戦のようですよね。自分はこういうことを知っている、僕はもっと知っているという話ばかりで、あまり自分がどう思っているかを話すことを訓練されてきていないような。


「女子」という呪い