イギリス最下層の人々に重なる、遠からぬ日本の将来像『花の命はノー・フューチャー』
新生活を始める人が多いこの時期。進学や就職はもちろん、20代半ば、30代を超えてから新たな環境に身を置く人もいるだろう。今回は、20代後半から海外に飛び込んだ人のエッセイを紹介する。
■『ロンドン・デイズ』(小学館文庫/著: 鴻上 尚史)
新天地で迷い、早くも苦戦している人にオススメしたい本が、39歳(当時)にして1年間ロンドンに留学した日々を記したエッセイ『ロンドン・デイズ』だ。
ロンドンの名門演劇学校に、特例の生徒として入学できることになり、短期留学を決めた演出家・鴻上尚史氏。学校から「語学力不足が妨げになることがあれば、授業参加を即時中止する」と条件が出ているため、事前に英語学校にも通うものの、入学当初は周りが話していることの半分も実はわからない。階級や出身が違うだけでも理解しにくいほど異なる英語の洪水を、機転とユーモアで乗り越える日々がつづられる。
ある程度の地位を得た中年以降に、国籍も世代も異なる知らない人々と、母国語以外の言語で勉強する。それは、心身ともに消耗するハードな日々だろう。大失敗して悔しい夜を過ごしても、学校に隕石が落ちないかな、とまで思っていても、次の日がやって来る。無意識に「どこの出身だろうが、英語は話せて当然」というプライドを持つ英語圏の人々を相手に、無事に1年間乗り切り、同級生たちとも親しくなったのは、著者が、うまくはない英語でもその場を笑わせることで相手の心を緩ませ、信頼を勝ち取っていたからであろう。
留学時期は1997年と古いが、世界各国から集まった若い俳優志望者たちに混ざり、ピチピチの黒タイツを身につけ日本の中年男性が奮闘する日々の、ユニークな輝きは古びていない。海外留学に興味はなくても、春から新たな環境に立ち向かっている人なら、笑って読みながら、明日を生き抜くための気力を蓄えられる1冊だ。
■『花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION』(ちくま文庫/著: ブレイディみかこ)
『ロンドン・デイズ』と同じく、2000年前後でのイギリスに暮らす日々がつづられた『花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION』は、イギリス最貧困地域の“保育士ライター”として知られるブレイディみかこ氏の初エッセイを復刻した1冊。31歳(当時)で2度目の渡英を果たした後、保育士を務める前に執筆したエッセイが中心で、現在からの書き下ろしのエッセイも加えられている。
イギリスでも特に「失業者および生活保護受給者の割合が例外的に高い」ブライトン地域に住む著者が、ワーキングクラスエリアから見える、“英国”の実際をスーパーハードボイルドに活写する本書。格差は広がり、失業者は増え、下層クラスは公共サービスや医療を満足に受けられず、若者は小銭稼ぎに犯罪に走る。スポーツ観戦とお酒とセックスでストレスを晴らす。会話にはFワードが頻出して、上品な人は鼻持ちならず、いわゆる典型的な“いい人”は、そうそう出てこない。それでも、彼女の周りにいるのはチャーミングな人々ばかりだ。良くも悪くも、清廉潔白を求められがちな日本の空気に慣れきっていると、ちょっとだらしなかったり、ズルかったりすることと、“いい人”は両立しないと思ってしまうきらいがあるが、人は簡単に「白」「黒」と分けられるものではないのだ。
ただ、そんな人を評して「清濁併せのんだ」と言えば聞こえがいいが、実際は選択の余地なく、のみこまざるを得ない環境に生まれた人がほとんどだろう。これは英国の話だが、日本も遠からず似たような道をたどるようにも見える。それでも生まれたからには、したたかに笑って生きるしかないという視点は、現実の混沌に目をつぶるより、はるかに健全だ。そして、それでもやりきれない人間に、音楽とお酒は平等に優しい。
(保田夏子)