「チヤホヤされるのが生きがい」元“隠れビッチ”が明かす男ウケ必勝法と、自身への懺悔
■男からチヤホヤされることで本当に求めていたもの
――「男にモテたい、チヤホヤされたい」という願望を持って自分なりの努力をしても、あらいさんのようにはいかず、報われない女子もいると思います。
あらい そういう方は、きっと好きな人やモテたい対象がちゃんと決まっているのではないでしょうか。本当に失礼な話になりますが、容姿や性格はまったくどうでもよいと思えば、不特定多数にモテるのは簡単なんです。私の目的は自分がチヤホヤしてもらえることなので、そこに合わせて、いくらでも相手のレベルを下げられたので……。
それを思うと、隠れビッチの男性版はヒモだと思います。尽くしてくれる相手から何の罪悪感もなく、奪えるところは奪える人。本来、“人は人の鏡”なので、一緒にいる人のレベルや扱い・性格などから自分を見つけられると思うのですが、ヒモの場合、相手は自分と不釣り合いな人なので、相手が自分の“鏡”にならないんです。だから、自分がどれだけのことをしているのかまったく気付かない。私はそれに加えて、自分の目的のためにこだわりのない相手を探していたことから、相手の“鏡”に映る気はなかったんだと思います。それは「報われている」よりも、結果として「自分を軽視」していた状態だと思います。
――隠れビッチな女性かそうでないかは、嗅ぎ分けられるものですか?
あらい 女性ならみんな、そういう女性には違和感や嫌悪感を覚えると思うので、わかると思います。それこそ、すれ違っただけでも。でも、私自身が今を振り返ると、決して褒められることでも推奨することでもありませんが、あの隠れビッチ時代があってよかったと思います。心のどん底から自分の本当に求めているものを見極めて、変わるべく行動し続けることで、今は穏やかな生活を手に入れることができましたので。
変わりたいと行動することは、恋人でも親友でも仕事仲間でも、自分のことを本気で見つめてくれる人、深くつながれる人と引き合わせてくれると思います。本にも出てきますが、「自分に自信がないからと男に逃げるな。女ではなく人間として生きろ」と言ってくれた友人の言葉は、深くつながった人がくれたものだからこそ真に迫ってきました。でも、私が本気で変わろうと努力しなければ、そういう言葉をかけてくれた方全てが離れていったと思います。万人に受け入れられることは難しいかもしれませんし、失敗もあるかもしれません。でも行動し続ければ、どんな隠れビッチ時代を送っていたとしても、良い方向に変われると信じています。
■「私は女、相手は男」性別に固執してた
――「女ではなく、人間として生きる」とは、どういうことだと思いますか?
あらい 隠れビッチ時代は、「可愛いね」「付き合って」「ヤリたい」なんて言われても何も感じず、とにかく「好きです」がうれしかったんです。それは、今思えば結局親に求めていたこと。親という存在は、自分に自信がなくてもありのままを認めてくれて、無償の愛で全肯定してくれる、と思い込んでいたんです。私はそれがもらえなかった、かわいそうな存在なんだと。それを癒やしたくて、男性に全肯定を求めてしまっていました。
でも同時に、隠れビッチ時代は、自分を偽って清純派に擬態した姿に「好きです」と言われることが、「私ではないものに向けられた言葉」と理解もしていたので、自分のしていることに矛盾があると気付いていました。歳を重ね、多くの方が望むような愛を受け取ってきたわけでもないことにようやく気付きましたが、当時の私はまだ気付いていませんでした。
あくまで私にとって「女として生きていた」状態というのは、理性ではなく本能や欲望だけで生きていたということだと思います。親から愛されなかった分、愛されたい! という欲望が暴走しているというか。その生き方は相手のことをなにひとつ尊重もせず、楽しいことだけ、自分に都合のいいことだけ、それも女の良い部分だけを享受し、「恋愛のようなもの」を通して奪うだけの生き方でした。人間として生きる、というのは、自分が本当に何を求めているのか、本能や欲望とじっくり向き合い、これからどう生きていけばいいのかを理性や心をもって、考え生きていくことだと思います。
(石狩ジュンコ)