「婦人公論」で、弱者のフリをする林真理子と説教をかます江原啓之から学ぶべきこと
ここ最近はシングルマザーに対する冷徹な物言いが物議を醸している林ですが、中園いわく「連ドラを書いていて『つらくてもうやっていけない』というとき、林さんと話をすると元気になる。私の気持ちを全部受け止めて、力強く励ましてくださって」。相手変われば人変わるということなのでしょうね。今回の対談でも「仮に私が『気配りの人』であるなら、それはああいう口うるさい男の人(※夫)と暮らしているから。毎日相手の好みの会話をして、先回りしてお茶を出して、日々我慢を重ねて修行しているの」と、辛苦に耐え忍ぶ妻を語っています。成功者という強者の面ばかり語られがちな林ですが、実は林の本当の切り札はこの“妻という弱者”のカード。この2つを巧みに使い分けることこそ、林のセルフプロデュースなのですよ。
「人って残酷な面があって、誰かを“生け贄”にすることで、仲間意識を強めようとするものでしょう。それで今でも、生け贄になっている人を見ると、かつての自分と重なるから、ついつい誘ったりしてしまいます」。若い頃に「ダサいとか田舎者と言われて、仲間外れにされた」という林。自分を生け贄にして仲間意識を高めていた人たちに対し、成功を手に入れた林が手っ取り早くできる復讐とは、弱者の自分を消し去ることなく強者でいることではないでしょうか。本当は強いのに弱いままでいる。自分も弱いから弱い人を叩くこともできる。シングルマザーを攻撃した際にも使われた林のこの“弱者ぶりっこ”手法。本筋からは少しズレてしましたが、「気配り」という言葉に込められた皮肉を感じずにはいられない対談でした。
■これこそインスタント思考な現代人から金を取れる説教!
続いては、そんな林の盟友・同志・ソウルメイトの江原啓之と、ゴーストライター騒動でおなじみ作曲家・新垣隆の対談「佐村河内さんの依頼をなぜ断れなかったのか」です。タイトルからもう後出しじゃんけんしまくりで説教する江原の姿がありありと!
冒頭から「あの騒動から1年経ったということですが、怪我の功名ともいうべきご活躍ぶりですね」とイヤミ成分多めの挨拶をかます江原。それに対して新垣氏は「あ、はい、私自身驚いています。もう音楽活動を続けることはできないと覚悟して会見に臨みましたが、コンサートに参加しないか、伴奏をしないか、と機会を与えてくださる方々に心から感謝しています」と模範解答。この対談、終始こんなやり取りが続きます。どうして佐村河内氏と手を組むようになったのかを新垣氏が時間を追って説明する中、江原は「実は私も『現代のベートーヴェン』に騙されてはいませんでした」「私には彼が語れば語るほど茶番にしか見えませんでした」と、“私は気づいていた”アピールを挟むことに余念がありません。わかった、わかったから!
一通りの経緯の説明が終わると、そこからはもう江原の独壇場。「私がもっとも憤りを感じるのは、彼が義手のバイオリニストである少女や、3・11の津波でシングルマザーの母を亡くした少女を自分の売名行為に利用したこと。彼を慕った幼い子どもがどんなに傷ついたか」と、新垣氏を岸壁ギリギリまで追い込むと、「とはいえ、新垣さんだけを責めることはできません。ベースにあるのは、日本人の芸術に対する教養のなさです」と突如主語が「日本人」に。さらに「もっと言えば佐村河内守という人は現代人の象徴なんです。(中略)いかに楽に体裁を整え、効率よく儲けるかに終始している。彼は成果主義に徹するインスタント思考な現代人の合わせ鏡なのです。その意味で、新垣さんは世の中に一石を投じる役割を果たされたように思います」と今度は「現代人」まで拡張。広がれば広がるほどボカされていく主体。これはもう、数珠も壺も水も羽毛布団も買っちゃうコースですな。
生活が苦しい、人間関係に悩んでいる、嫌われるのが怖い、世間に認められたい……その状況が深刻であればある程、「イヤ」という悲鳴は発しにくいもの。林真理子のように弱者である自分を盾に弱者を叩く図々しさや、江原啓之のようにスピリチュアルというよくわからないものを盾に現代人というよくわからない括りを叩くような尊大さ……それらを持ち合わせていない我々が最後に頼れるものは、「どうにも、体が言うことを聞きません」という魔法の言葉だけなのだと確信しました。
(西澤千央)