深澤真紀の「うまないうーまん」第3回

「同じ女として」「同じ母として」は、女性の多様性を制限する魔の言葉

2013/10/05 16:00
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イラスト:小野ほりでい

 前回の「“草食男子”の二の舞い? 『女の敵は女』を喧伝するおやじ週刊誌」を読んだ30代の女友達が、「でも、女の敵は女だと思うこともあるし、おやじが味方してくれることもあると思うなあ」と言う。もちろん、それはそうである。前回の原稿では要するに、「女の敵は女のこともあれば男のこともあるし、女の味方は女のこともあれば男のこともある」(男の場合もしかりだ)のに、「“女の敵は女”と煽って、高みの見物をするおやじ」に気をつけろと言いたかったのだ。

 「それでも女同士の関係は難しいよ」と、さらに女友達は言う。まあそうだけど、男女の関係だって、男同士の関係だって、それぞれに難しいものだ。ただ女同士の関係の難しさに“特殊性”があるとすれば、それは“同じ女”という幻想を共有・強要されることだろう。

 私はテレビやラジオでコメンテーターをしているが、「同じ女として、信じられません」だの、「同じ女として、許せません」とだけは言わないようにしている。私自身が重度の“女オンチ”(男のことだってわからないので“人間オンチ”というほうが正しいけど)ということもあるが、自分が女だからといって、ほかの女性のことがわかるわけがないからだ。「女の敵は女」でもないし、「女だからわかり合える」わけでもないし、「女だからみな母になりたい」わけでもないし、「女だから平和を愛する」わけでもない。

 また、昔なら「ぶりっこ」、今なら「半沢直樹の妻の花」「ロンブー淳の妻」などを見ると、「あんな女はいない」「男は女にすぐだまされるが、女は女の本性が見破れる」などと言う女性も多い。女オンチの私にはもちろん見破れないのだけれど、そもそも女同士であっても「あんな女はいない」と言い切ることはできないだろう。いろいろな女がいるものだし。それにもし、猫をかぶって男をだました女がいたとしても、うらやましければ自分なりにそこから学べばいいだけだと思う。私には無理なので、うらやましがりもできないけれど。

 そういえば、恋愛やセックスにがつがつしない男性(消極的とは私は言っていないのだが)を、草食男子と名付けた時にも、多くの男性から「こんな男はいない」「中年女の幻想」などと言われたものだ。実際には多くの男性への取材をしていたし、発表後にも「自分のことだと思った」と、いろいろな男性から言われたのだが。


 そして、“同じ女”という幻想も強大だが、それ以上に強いのが“同じ母”という幻想だと思う。しかし、女だって母だっていろいろである。前回取り上げた「子供を産んだら仕事を辞めろ」と主張する曽野綾子は女であり、母である。つまり、“女であり母という経験”をしても、そこから本人が得られる結論はさまざまなのである。でももちろん、そのほうがいいのだ。いろいろな女や母がいたほうがいい。

 ちなみに私は学生時代から原発に反対する運動に関わってきたが、当時も今も「女だから、母だから、原発を止められる!」と言われることにはずっと反発してきた。女だから反対してきたわけではないし、しかも私は結局母にはならなかったわけだし。さらに原発に賛成する女や母がいても(実際にたくさんいる)、「女なのに、母なのに、おかしい!」とは思わない。賛成する人にだって理由はあるからだ。

 自分のことはフェミニストだと思うが、だからといって「すべての男は悪で強者であり、すべての女は善で弱者である」とも思わない。フェミニストのテンプレートと思われがちなミスコンへの抵抗もないし(いまはミスターコンもあるし)、女性のアイドルも大好きだし(日本の男はロリコンだから、みたいな言説にはくみしない)、セックスワークについても、きちんと法的に整備すれば仕事として尊重されるべきだと思っている。

女はオキテでできている―平成女図鑑