「タレント本という名の経典」

母と娘のいびつな相思相愛――「女の賞味期限切れ」を宣言した西川史子の危うさ

2013/07/15 21:00

 また西川母は「婦人公論」(中央公論新社)のインタビューにおいて、自らの哲学である「人生、カネとコネ」は、「私が先生にかわいがられて得をしたから」、つまりプラスの体験から生まれたとしている。しかし、本書で西川は「母は日本舞踊をしていたが、付け届けをしていないのでよく見てもらえなかった」と、母の哲学はマイナスの経験から生まれたと説明している。どちらが正しいかは問題ではない、娘がどう受け止めたかが重要である。母に悲しみや苦しみがあると知った時、娘はその痛みを自分が癒やそうとする。母娘が逆転し、娘が母親の母になってしまうのだ。

 このように母と娘が相思相愛な場合、男の入る余地がないので恋愛や結婚は難しい。結婚し、肉体は夫のそばにあっても、西川の心はまだ母の傍にあり、母を求めている。本書で西川が「同性の友人は良い」と繰り返し書くのは、彼女たちが西川の母親替わりをしてくれるからだろう。

 離婚危機が伝えられる西川夫妻だが、西川母が「無事に結婚生活を送ってほしい」と望んでいるので、離婚はしないと思う。「誰よりも幸せになってもらいたい」と語る母のために、娘は「誰よりも幸せ」とは何かを顔色から探り、それを成し遂げようとするからだ。

 同じタイプの母娘は日本中に溢れている。母は娘の幸福を願い、純粋な愛を注ぐ“聖女”であるが、結果として恐怖にも似た鎖で娘をがんじがらめに縛りあげる。夏目漱石は『三四郎』において悪意なく男を破滅に導く美禰子を「無意識の偽善者」として描いたが、西川母を始めとする数多くの母親も、どこか「無意識の偽善者」の顔を持つ聖女なのかもしれない。
(仁科友里)

最終更新:2019/05/17 20:56
『女盛りは、賞味期限が切れてから』
一番傍にいる娘だけが「毒母」に気づいてないという皮肉