[連載]ギャングスタのスターたち

コカインの売人から大成したジェイ・Z、政治家になれない致命的な過去とは?

2013/07/24 16:00

 落胆したジェイはコカインを売りさばく生活に戻る。至る所で銃撃戦があるマーシーで、彼は3度も撃たれたが、幸運なことに全て軽傷で済んだ。同じ頃、友人でレコード・プロデューサーのクラーク・ケントから、「お前は世界で一番なんだぜ。もう一度ラップをやれよ」と強く勧められ、デモテープを作成。クラークと共にレコード会社に売り込みに行ったが、軒並み断られてしまう。クラークは、ヒップホップグループ「Original Flavor」のマネジメントをしていたデイモン・ダッシュに、ジェイを売り込みたいと相談。ハーレム出身のデイモンは、「ブルックリンといえば犯罪とFILAのスニーカーだろ?」と乗り気でなかったが、初対面のジェイがナイキのスニーカーを履き、スタイリッシュに振る舞ったため、2人は意気投合。デイモンは、ジェイにニューヨークのアンダーグラウンドで活躍するラッパーたちとラップ・バトルさせる手配をした。ジェイのオリジナリティあふれるライムは、アンダーグラウンドでセンセーションを巻き起こし、口コミで知名度を上げていった。

 手応えを感じたデイモンは、「Original Flavor」にジェイをフィーチャリングさせ、彼らのツアーに同行させた。デイモンはこのタイミングで再びレコード会社にジェイを売り込むが、どこも契約には至らずイラ立ちを感じるようになる。そして、「だったら、オレたちだけでやろうじゃないか」とジェイに持ちかけ、手始めにマーシー団地を舞台にした「I Can Get With That」(94)のPVを制作。同年、自分たちのレコード会社「ロッカフェラ・レコード」を立ち上げた。社名は、アメリカ合衆国の白人企業家で富豪の家系であるロックフェラーをもじり、ロック野郎という意味にかけてつけたとのことだ。

 「デカく見せることで、デカくなる」ことを狙った彼らは、ジェイ・Zという車のナンバープレートを取得して超高級リムジンを乗り回し、高価なジュエリーを身にまとい、黄金のシャンパン「クリスタル」を飲み、ライブで100ドル札をばらまいた。そして、ジェイのポスターを町中に貼り、車で町中を駆け回り、アルバムやオリジナルTシャツを売りさばいた。ジェイの名はニューヨークに知れ渡り、ストリート販売も上々だったが、大手レコード会社ではなかったため、なかなかメインストリームに入り込めずにいた。

[バッシング・評価]
 デイモンは、ニューヨークで最も人気のあるHIPHOP・R&B専門ラジオ局「Hot 97」にジェイを売り込んだ。耳の肥えているラジオのDJたちはジェイのラップをとても気に入り、繰り返しかけるように。当時、まだ16歳だった女性MCフォクシー・ブラウンとコラボした「Ain’t No Nigga」(96)は、エディ・マーフィー主演の映画『ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合』(96)のサントラに抜擢され、全米にジェイの名が知られるきっかけとなった。このおかげで、ロッカフェラはHIPHOP・R&B専門としていたレコードレーベル「デフ・ジャム・レコード」とパートナーを組むことになり、一気に成長した。

 クラークは、ジェイと同じ高校に通っていたノトーリアス・B.I.G.を引き合わせ、2人は意気投合する。ラッパーとして地位を高めていく者同士として再会した2人は、大親友となった。97年3月にB.I.G.が射殺された時、ジェイは精神的に大きなダメージを受けたが、世間の「これからはジェイに頑張ってもらいたい」という声に応える決心をする。しかし、その時、流行となっていたR&Bサウンドっぽいラップに手を染めるという、デイモンいわく「失態」を犯してしまう。


 歌手/プロデューサーのベイビーフェイスをフィーチャリングさせた「Sunshine」(97)は決して悪い作品ではないのだが、PVはカラフルでポップな仕上がりとなってしまい、ファンを落胆させた。「ブルックリンっぽさがない」「ハードコアなラップじゃない」とブーイングが起こったのだ。このイメージを消すため、デイモンは「Streets Is Watching」(98)のPVを制作。デフ・ジャムが尻込みしたため、ロッカフェラ単独制作となったが、ブルックリンのハードコアなシーンを次から次へと詰め込んだドキュメンタリーのようなPVに仕上げ、ファンの心をつかみ戻した。そして、ポップなイメージを拭い去ることに成功したのだった。

『JAY‐Z―ロッカフェラ王朝を築いたヒップホップの帝王』