「タレント本という名の経典」

自称クリエイター女子赤面必至!? 蜷川実花になるためのコスプレ読本

2012/09/29 16:00
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『オラオラ女子論』/祥伝社

――タレント本。それは教祖というべきタレントと信者(=ファン)をつなぐ“経典”。その中にはどんな教えが書かれ、ファンは何に心酔していくのか。そこから、現代の縮図が見えてくる……。

 カメラは本当に困ったものである。そこそこいいデジカメが安く買え、iPhoneには素人写真をそれらしく加工するアプリがたくさんある時代、カメラは“自称クリエイター”が寄ってくるホウ酸ダンゴみたいな機械である。その上、「蜷川実花」なのである。蜷川実花は、いつも仮装した蜷川幸雄みたいに見える、とてもおしゃれな写真家である。だから、ちょっと気の回る女の子はついこう考えてしまう。「私、撮られる側にはなれないけど、撮る側にはなれるかもしれない。実花さんになれるかもしれない……!」。事実、蜷川実花の公式ブログに寄せられているコメントを見ると、単純な一文の中に、うっすらとしみ込まれている野心が散見される。

(ロケの報告に対して)「楽しそうでうらやましい♪」
(自分の海外旅行について)「になみかさんのような写真撮って帰りたいです」
「みかさんに負けないくらいタフに生きるぞー!」
「みかサンの色彩、私の色彩感覚に似ているのでなんか好きです」

 言外に「アタシだってアンタ程度の写真は撮れる!」という意気込みを感じてしまう。そんなファンにぴったりの書が、『オラオラ女子論』(祥伝社)だ。本書には、蜷川実花の仕事哲学が述べられている。どれもこれも、自意識の高い女子なら真似したくなるようなことばかり。そこがまた「実花さんみたいになりたい」という気持ちに拍車をかける。

「自分が女子であることをすごく楽しんでいたい」
「ダサくて野暮ったいことが嫌い」
「母性と仕事と恋愛でしか生きていない」
「男の人に対しては全てにおいてベースはかわいらしくという姿勢でいる」

 ほかにもいろいろと書いてはあるが、もともと135ページという薄い作りの上、“極彩色で彩られた蜷川ワールド”と俗に言われる写真や、本人のオラオラ顔写真がふんだんに入っており、文章はとても少ない。少ない上に同じことが繰り返し語られているので、どうにも薄っぺらい印象が拭えない。それは本人が薄っぺらいということではなく、「どうしたらてっとり早く“蜷川さんみたい”になれますか」という女子たちの質問に、端的に答えようとした結果だからなのだと思う。そこでブレーキをかけているのが、本書の「年下から見た蜷川実花」というページに掲載されている漫画家の東村アキコのコメントだ。


「『蜷川実花に憧れてるおしゃれ女子達に告ぐ!!!(いきなりブチギレモードで)』優雅に湖畔をつつーっと滑る白鳥も、水面下ではものすごい足掻きしてるんですよ!!!!!おしゃれセレブ写真家と思われがちな蜷川実花も実は、毎日、秒刻みで仕事子育て仕事子育て仕事子育てとぐるぐるぐるぐるもうバターになっちまうくらいに(若い子はちびくろサンボしらんかもしれんけど)まあそういう毎日ギリギリの極限生活を送って、でも酒が全然飲めないからストレス発散できなくて、だからそのストレスが脳内の乙女妄想をカメラを通して爆発させて発散、なんなら飛散して、そしておめえらのお手元に素敵な写真となって届いているわけですよ!!」

 さらに、本書に収録されている蜷川実花と、ピーチ・ジョンCMO野口美佳、東村アキコ、コラムニストLiLyによる座談会「GIRL’S?TALK」の中では、蜷川実花自身が次のように語っている。

「『蜷川さんみたいになりたい』って言われると『マジ1mmも暇ないけどいい?』って聞きたくなる(笑)」

 誰も1mmも暇がない多忙な蜷川実花なんてなりたくない。蜷川実花的エッセンスである「おしゃれ」「クリエイター」「イケメン俳優」「人気女優」「金」「夜遊び」といったキーワードに興味があるだけだ。つまり、本書は、蜷川実花というコスプレをするためのハウツー本なのである。

 しかし、付け焼き刃のコスプレじゃ真似ができないところがある。蜷川実花の徹底的な自己肯定の姿勢である。一般的に、タレント本などでは「こう見えても私だって……」と、過去の挫折経験や苦悩を語り自分の弱みをさらけ出すと、読者の共感を集めやすい。しかし、蜷川実花は挫折や自虐、苦悩を武器にしない。まれに「諦めていることもあるし大変なこともいっぱいある」「うまくいかない時期ももちろんありました」といった文章が挟まれているが、詳細を語らずサラリと流している。それどころか、


「女性差別を受けたことがなくて変な女性的コンプレックスもないから、逆に何のわだかまりもなく男性に委ねることが出来る」
「両親が有名人ということで嫌な思いをしたことはないです」
「父母から絶対的に愛されていたという記憶があるので、ひねくれることもないし、打たれ強い性格になりました」

 と堂々と語る。あとがきでは「すんません、はしゃいでて。でも、ま、いいですかね、たまには」なんて言っている。実際はしゃいでいる。冒頭から小顔の女優・俳優・モデルとのツーショット写真をずらずら並べて、大きな顔を強調している。著名人とのツーショットを飾り立てる成金のリビングルームに来たみたいで正直寒い。それでも掲載する。共感を求めない。言い訳したり、しもじものもとへ歩み寄ったりしない。強者は強者として時代に君臨している。時代の寵児・蜷川実花はこう語る。

「多分いつかは世間との感覚がずれる時が来ると思うんです。で、その時には絶対に歩み寄らないぞって決めている」
「すごく焦ってしまうだろうけど、でも、世間に対して媚びたところで私は終わる」

 「実花さんのようになりたい」と言う女子は、世間とずれた蜷川実花を想像したことがあるだろうか。その時にも、「実花さんのようになりたい」と言うのだろうか。誰かに「寒い」「イタい」「ブスのくせに」と叩かれても、はしゃぎ続けることはできるだろうか。自分自身が「時代とずれてる」と痛感した時、世間に媚びずにいられるだろうか。自虐的な言い訳もしないで。そういう女子は、はじめから「実花さんのようになりたい」とは言わないはずだろう。

 「○○さんみたいになりたい」と憧れる自称クリエイターの薄っぺらさ。それをこの薄っぺらい本が気づかせてくれた。孤高の人に群らがるのが流行。群がる人は、いつまでも群がる人でしかない。両者の間には深い河が流れている。そこを越えるには、寒さイタさを一身に受けなければならないのである。
(亀井百合子)

最終更新:2019/05/17 20:57
『オラオラ女子論』
ニナミカを“文学的”に語る演技派俳優陣のコメントもものすごいよ☆