【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

寛仁殿下、信子妃の写真提出を完全拒絶――家庭生活では娘2人が「パパッ子」に

2025/05/31 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

サイゾーオンラインより】

2019年5月4日、一般参賀での三笠宮信子さま(左)(画像:GettyImages)

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

目次

寛仁殿下の喪主は彬子さまだった
寛仁殿下、信子妃の写真を完全拒絶
寛仁殿下、最大の娘自慢ポイントは「新橋の芸者さんと仲良し」
「皇族の娘をもらってくれる男なんて、いったいどこを探せば」
「皇室はストレスの塊」発言も

寛仁殿下の喪主は彬子さまだった

――平成3年(1991年)、彬子女王殿下のお父さま、三笠宮寛仁親王殿下は下部食道がんであることを公表なさいました。 
 
堀江宏樹氏(以下、堀江) 殿下は長年にわたってお酒とタバコに縁が深すぎる生活を送っておられたそうです。 

 食道がんの手術は成功しましたが、食道の8割を切除する大手術となりました。また、不幸にして翌年以降、何度も再発が繰り返されたのです。 

 当初、寛仁殿下の闘病を信子さまは懸命にお支えしたそうですが……平成15年(2003年)の再発以降、殿下が入退院を繰り返しているさなか、信子さまも体調を崩され、「脳虚血発作」で療養生活に入られました。 

 そして翌年(平成16年・04年)には「胃潰瘍と更年期障害」の療養の目的で軽井沢の別荘に移られています。その後は病床の寛仁殿下と信子さまが(諸説ありますが、すくなくとも寛仁殿下に意識があるうち)ご対面なさることはなく、殿下のご葬儀にも参列されぬまま。また、寛仁殿下のご意思で、喪主を務めたのは長女の彬子さまでした。 
 
――週刊誌の記事では「周囲」が信子さまを殿下に会わせようとしなかったという説も根強いです。最近では彬子さま・瑶子さまと、信子さまの確執が公然の事実のように語られていますよね。 また、平成19年(07年)の「ニューヨークタイムズ」誌のインタビューに登場した寛仁殿下は、「家庭内ではもめ事が多かった」と明かしつつ、「二十六年も連れ添っていればね」とおっしゃっていました。 

寛仁殿下、信子妃の写真を完全拒絶

堀江 生前の殿下が長年交流してきた作家・工藤美代子さんによると、ある時、編集者が寛仁殿下を取材し、誌面のために昔のお写真を求めたところ、「殿下が見せてくださったたくさんの写真の中には、一枚も信子妃の写っているものがなかった」そうですし、そういう写真の提出もお願いしてみたところ「あ、それはダメだな」という言葉で完全拒絶されてしまったそうです(工藤美代子『悪童殿下』幻冬舎)。 

――彬子さまも母・信子さまについては、ほぼ完全に沈黙を続けておられます。 
 
堀江 どうして当初は順調だったお二人の結婚生活が……と外野には思われるのですが、おそらく、われわれがこの件について、これ以上知ることはないのではないでしょうか。 「話したくない」という殿下のご態度に、すべての答えは出てしまっている気がします。 

 しかし、寛仁殿下のご家庭生活は決して不幸なものではなく、彬子さま、瑶子さまのことは、お忙しいご公務の合間をぬっての子育てでしたが、今風にいえば「イクメン」でありました。殿下を慕うパパッ子にお二人ともお育ちになられたようですね。 

 殿下は彬子さまが学業優秀でいらっしゃることは、大のご自慢でした。またのんびり屋の瑶子さまのことも大変にかわいがられ、試験前の“家庭教師”をなさったこともあったそうです。

寛仁殿下、最大の娘自慢ポイントは「新橋の芸者さんと仲良し」

 ――彬子さまは女性皇族の中で、最初に外国の大学院で博士号を取得なさった方となられましたね。 
 
堀江 先日のニッポン放送でのラジオ番組(『彬子女王のオールナイトニッポンPremium』)でも、30万部超えのベストセラー『赤と青のガウン オックスフォード留学記』(PHP研究所)の舞台となったイギリスでの留学生活について触れられていましたね。 

 彬子さまの博士号取得にはお祖父さまにあたる三笠宮崇仁殿下も大喜びで「皇室の歴史始まって以来の快挙だ!」とさえおっしゃったそうです。 

 ――同じ学者として本当にうれしく思われたのでしょうね。 
 
堀江 しかし、寛仁殿下の最大の“娘自慢”のポイントは「うちの娘たち(彬子さま・瑶子さま)が僕のなじみのバーのママさんや新橋の芸者さんと仲良しだということなんだよ」。

 そして「こういうお付き合いもちゃんとできる女の子に育ったことを、僕は誇りに思っているんだ」ともおっしゃいました(工藤・前掲書)。また、お二人方の結婚についても深く気にかけていらっしゃるご様子でした。 

「皇族の娘をもらってくれる男なんて、いったいどこを探せば」

 ――思えば、小室眞子さんの結婚もかなり大変でしたからね……。 
 
堀江 戦前から「嫁ぎ先としての『皇室』は人気がなかった」というのが、寛仁殿下の偽りなきお言葉です。戦前の「おふくろ(=三笠宮百合子妃)」のお話として、「貞明皇后(大正天皇妃)が、『ぜひとも三笠宮の妃殿下に』と、うちのおふくろに白羽の矢を立てたとき、おふくろは『皇室なんて絶対に嫌です』と泣いて嫌がった」そうなんですね(工藤・前掲書)。 

 寛仁殿下はこのようにさえおっしゃっています。 

 「今の時代に皇族の娘をもらってくれる男なんて、いったいどこを探せばいるんだか。なかなかいるもんじゃない」――ここでお話がいわゆる「小室問題」に飛んでしまうのですが、こういうお気持ちは秋篠宮さまにもおありだったのかもしれませんね……。 
 
――寛仁殿下は長い闘病の末、平成24年(12年)6月6日に66歳という若さで薨去されましたが(=亡くなられましたが)、もし「小室問題」に遭遇なさっていたら、どのように発言されていたでしょうね。 
 
堀江 もしかしたら熱烈に擁護なさったかも……という気持ちが私の脳裏をかすめるのですが……推測はこのへんで。 

 寛仁殿下はお二人の女王方のお相手について、交流があった作家・工藤美代子さんに、「うちの娘たちに誰かいい人いないかな」と尋ねることもあったそうです。「家柄なんて関係ない(略)家柄なんていっさい問わないから、いい男の人がいたら紹介してくれないか」とも仰っていたとか。 

 ただ、これについては寛仁殿下は「結婚するならば、旧皇族が相手だ」と彬子さまに条件を出していたという異説もあるようですね(佳子さま30歳に 「どうせ好きな人とは結婚できない」とつぶやいた内親王 悠仁さまを支える道と、皇室を離れる道)。 

 しかし結局、お二人には「自由に生きろ、素敵な女になれ」というのが殿下の変わることのないお気持ちだったのではないでしょうか(工藤・前掲書)。 

「皇室はストレスの塊」発言も

 ――もし寛仁殿下がご長命でいらしたら、悠仁さまのよき相談相手にもなられていたかもしれませんね。 
 
堀江 そうですね。晩年の寛仁殿下は、いわゆる女性天皇(女系天皇)問題にも積極的にご発言なさいましたが、それについて触れるのはまた別の機会にしましょう。 

 外野から見ても、皇族に生まれるということは、生まれた瞬間から永遠に日本中の注目を浴び続けることにほかならず、窮屈な人生になりやすいかもしれません。殿下も「皇室はストレスの塊」発言をなさいました。

 しかしそういう制限ある中でもできる限り自由に、そしてワイルドに羽ばたかれた方だったのではないでしょうか。 

 寛仁殿下のそういうDNAを彬子さまも強く受け継がれていると推察します。父宮譲りの「皇室のスポークマン」としてだけでなく、日本のさまざまな伝統文化を国内外に発信しつづけるという研究者としての彬子さまの今後のご活躍を楽しみにしております。 

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2025/05/31 17:00
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