歴史エッセイスト・堀江宏樹の大河ドラマ『べらぼう』放送談義14

『べらぼう』吉原者は家を持てない「四民の外」という差別概念と遊女たちの“身分証”だった『吉原細見』

2025/04/17 19:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

サイゾーオンラインより】

『べらぼう』吉原者は家を持てない「四民の外」という差別概念と遊女たちの身分証だった『吉原細見』の画像1
『べらぼう』の主人公・蔦重を演じる横浜流星(写真:Getty Imagesより)

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・大河ドラマ『べらぼう』に登場した人物や事象をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく独自に考察。

 前回の『べらぼう』にも興味深いトピックがたくさん見られましたね。

 中でも大文字屋の主人・市兵衛(伊藤淳史さん)が神田に家屋敷を購入しようとしたのですが、手付金まで支払った段階で「やはり吉原者に家は売れない」と断られてしまいました。売り主いわく、町内の有力者が「吉原者なんかとご近所さんになるのは嫌だ」と渋ったから云々というお話に驚いた方もおられるでしょう。

 納得がいかない市兵衛は町奉行所に訴えたのですが、まさかの敗訴。女郎屋ごときは「四民の外」の存在だから、吉原以外の不動産など購入できると思うのが間違いだといわれたばかりか、「今後は吉原の人間に間違っても所有する家屋敷を売らないように!」というお触れまで公的に出されてしまった。これまでも吉原者として差別されている感覚はあったが、ここまでされたのは初めてだと嘆く……というお話でした。

 これらは、18世紀末に成立した『譚海』という随筆集にも記された実際の事件のようです。

 ドラマでいう「吉原者」は、史書の類では「廓者(くるわもの)」と呼ばれている存在です。

 廓者――つまり吉原で商売を営む経営者とその家族たちは、現在の戸籍簿に相当し、当時は6年に一度更新され、奉行所にも提出されていた人別帳(にんべつちょう)にも名前が記されています。人別帳に名前と所在地、職業があるということが「良民」の証しだったのですね。そしてドラマのセリフにもあったように、吉原者もちゃんと幕府に冥加金(献金)も納めているし、賦役労働などもこなして幕府には「奉仕」していたのでした。それなのに「四民の外」……。

『譚海』には「遊女屋と申し候者は四民の下にて、穢多に准じ候者」とさらにハッキリ書かれてしまっています。江戸時代ではいわゆる穢多・非人といった人々のことが「被差別民」の扱いでしたが、「吉原の遊女屋などは穢多と似たものなのだから、善良な一般市民と立ち交じろうとするなどもってのほかだ」というのが、安永7年(1778年)の江戸町奉行所の見解だったのです(『譚海』)。「被差別民」の解釈が拡大されていることがわかります。

 大文字屋は、ドラマ第1回で描かれた明和9年(1772年)の吉原の火事で焼きだされた折、浅草あたりに「別荘」として家屋敷を購入したことがあったそうです。このときにはなんのトラブルも起きませんでしたが、約7年で明確な差別を受けるようになってしまったわけですね。

 ドラマでは、瀬川こと瀬以(小芝風花さん)に「夫の鳥山検校(市原隼人さん)が高利貸しで儲けた金で贅沢に暮らすなど不届至極」といいつつも、人情味のあるお裁きを下した町奉行所のお奉行様が印象的でした(どっかで聞いたことのあるイケボだと思ったら、アニメ『夏目友人帳』のニャンコ先生役などで知られる井上和彦さんでびっくりしたという方も多いでしょう)。

 あのお奉行様の(元)遊女に対する認識もそうですし、前々回、松葉屋に売られてきた様子が映っていた武家の少女が一人前の遊女となり、堕胎したあと体調を崩し、あまりのつらさに「自分や父母の悲惨な運命は、すべて座頭金で儲けた鳥山検校や瀬川のせいだ!」となってしまい、包丁で斬りかかるシーンもありました。

 史実でも一般的な職業とはいえない人たちは、すべて「四民の外」、うさんくさい奴らだ、けしからん、という感覚を持たれていたことは否めないと思います。実際、18世紀は身分差別が厳しくなりつつあった時代でした。いや、身分差別というか、職業差別といえるでしょうか。

『譚海』によると、遊女屋の他にも当時、「四民の下」の扱いを受けるようになった職業が書かれています。「角力取(すもうとり)・儒者・講釈師・諸芸の師匠等、都(すべ)て四民の外無商売にて遊食の徒」――相撲レスラー、各種カルチャースクールの講師などはすべてまともな商売をしていない下等遊民なのだ(超訳)……という認識には驚いてしまいます。

「角力取」が筆頭なのは、武闘派の不良がたどり着く定番の職業がヤクザか、力士だったからでしょうか。当時の相撲界はヤクザとも結託し、力士の勝敗を利用したバクチを開催しており、なかなかにブラックな業界なのでした。

 また「儒者・講釈師(=儒学を教える先生)」といった現在では知的職業と思われる人々をも「四民の下」扱いにしている理由としては、仕えるべき主人を失った各地の武士たちが江戸や大坂に大量流入し、彼らの多くが食い扶持稼ぎの商売として始めたのが「儒者・講釈師」だったからでしょう。

 三代将軍・家光の死後まもなくに勃発した「由井正雪の乱」こと「慶安の変」(慶安4年・1651年)も、神田で私塾を開き、ひまな武士たちに軍学を教えていた由井正雪なる人物が愛弟子を率いて幕府転覆を試み、計画は失敗したものの大騒ぎになったという事件です。

「吉原細見」という遊女の人別帳

 これ以降、武士としての仕事がない浪人たちに対する幕府の眼差しは非常に厳しくなっていたことがわかります。そしてこれらの職業を幕府がイヤがった理由としては、どんな形にせよ「税」を課しにくかったからでしょうね。

 しかし吉原の場合は、「廓者」と蔑まれようが幕府に冥加金を収めているし、江戸城から求められれば畳替えなどの賦役労働もこなし続けていたのに……、という不満があって当然です。それでも結局、奉行所の見解に楯突くことは許されず、「四民の下」に置かれてしまった以上、不満があって奉行所に訴え出たとしても、そのお裁きは自分たちに厳しいものになると諦めるしかない時代でした。

「諦める」といえば、瀬川(瀬以)の蔦重(横浜流星さん)への恋心を知り、離縁してやる鳥山検校も哀れでしたが、「籠の鳥」から自由の身になれた瀬川も蔦重とあっという間に布団で添い寝する仲になった一方、自分が彼のお荷物になることを予測し、身を引いて旅立ってしまいましたね。それでもおそらく瀬川はドラマには再登場するのでしょうが、こういう現代人には不思議なほどの「諦めの良さ」は、当時の人々が生き抜くための必須スキルだったのかもしれません。

 さて――、遊郭経営者たちはともかく、お抱えの遊女にも人別帳はあったのでしょうか? 

 結論からいうと遊女たちの人別帳の代わりとなるものが「吉原細見」でした。「吉原細見」には、所属する店舗ごとに遊女の源氏名、出生地、年齢などが書かれていましたから、奉行所も「吉原細見」が出るたびに提出を求め、それによって遊女の出入りを把握していたという説があります。つまり「吉原細見」は奉行所の(半)公認であるがゆえに、お上から取り締まりを受けず、出版もされ続けたということでもありますね。しかしまぁ、提出された「吉原細見」で遊郭に興味を持ち、吉原にお忍びで出かけてしまう武士たちも少なからずいた気がしてなりませんが……。

※本文中にある差別語は歴史的用語としてそのまま使用しています。

(文=堀江宏樹)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2025/04/17 19:00