コラム
【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

東京大学受験が「美談」になった皇族も? 批判に晒された悠仁さまとの違い

2025/01/11 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
2007年8月31日、1歳の悠仁さま(C)GettyImages

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

目次

男性皇族は「エリート軍人」となることが義務だった
学習院設立の背景に、皇室と一般社会のゾーニング
東京大学受験を公言した皇族と、悠仁親王の違いとは?

男性皇族は「エリート軍人」となることが義務だった

――昨年(2024年)末、秋篠宮家の悠仁親王が筑波大学・生命環境学群生物学類に推薦合格なさったという発表がありました。悠仁親王は幼稚園から大学まで、「皇族のための学校」といわれている学習院にはまったく御縁がなかったわけですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 悠仁親王のご両親である秋篠宮ご夫妻は、いうまでもなく学習院大のOB・OGであられ、同校で出会ったことがきっかけで結婚もなさったともいわれます。学習院という学校が「皇族のための学校」というイメージで見られるのも、秋篠宮ご夫妻だけでなく、多くの皇族がたがこの学校に通われたという「歴史」あってのことなんですね。

――学習院の歴史についてはこれまでもお話しいただきました。貧しさが理由でまともな教育にありつけなかった公家の子弟たちが通うための学校として作られた、幕末の京都の学習院と、東京・学習院は名前こそ同じですが、まったく違う組織だといえるのですよね?

堀江 はい。東京・学習院は明治10年(1877年)の設立時点から、皇族・華族の子どもたちが通うことを第一に想定した、超特権階級のための特別な学校でした。

ちなみに明治10年以前に「高等教育を受けたい」と考えた皇族・華族たちはどうしていたかというと、明治天皇は海外留学を勧めていたのです。

学習院設立の背景に、皇室と一般社会のゾーニング

――悠仁親王が東京から茨城に通学なさるのか、それとも大学の近くでお暮らしになるのかが注目されていますが、かつては海外留学ですか。明治期のほうがある意味、自由だったのですね。

堀江 とはいえ、いくら身分が高くても、いきなり海外の高等教育機関に留学できるほど語学力が備わっている人はいません。

 たとえば明治5年(1872年)、伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王は東京の大学南校(東京大学の前身)にご入学、同校でフランス語の勉強を始めた記録がありますね。貞愛親王はその後、陸軍大学校に進学し、英語やドイツ語なども習得なさいました。さらにベルリン大にも聴講生として、半年ほどお通いになりました。

 このように、戦前の男性皇族は「エリート軍人」となることが義務で、国内外で受ける教育もすべてそのためだったのです。

 しかし、天皇家がすべて留学費用を負担してくれていた戦前の皇族に対し、家柄は高くても経済的な悩みがある華族は少なくなく、明治10年に学習院が創立されるまでは慶應義塾に通うことが多かったようです。明治初期から明治10年以前でも、60余名に上る華族のお坊ちゃまたちが慶應義塾に通っていました。

――普通の生徒たちから浮いたりしなかったのですか?

堀江 当時の慶應義塾は寮生が中心なのに、華族学生は東京の一等地にある広大な自宅からの通学、それも大勢の従者を引き連れているため、一般学生との間には反目があったそうです。

 だからこそ、華族・皇族のための教育機関の設立が急務とされ、明治天皇の後押しもあって、明治10年に東京・学習院は誕生したわけですね。逆にいうと、皇族・華族といった超特権階級の子弟が、一般人――とはいってもかなりの上流階級の子どもたちなのですが、彼らとの間に余計な「摩擦」を発生させぬように作られたのが学習院だったということです。

 これは一種のゾーニング(棲み分け)で、「私たちは君たちの生活を脅かさない」という超特権階級から一般社会への「配慮」だったともいえるでしょう。秋篠宮家の悠仁親王のご進学問題については、まさにこの手の明治期から現代まで続くゾーニングを踏み越えるものであったため、批判に晒されたということですね。

東京大学受験を公言した皇族と、悠仁親王の違いとは?

――ネット記事では、悠仁親王の第1希望は東京大学・農学部であるという説が根強く語られてきました。東大にも推薦入試枠が存在するため、その限られた枠を秋篠宮家が利用するのではないか、ともみられてきたのですが、悠仁親王のご進学先が筑波大学だったことで、一時の緊迫ムードはかなり緩和しましたね。とはいえ、筑波大の推薦入試も、内部進学や指定校なら「楽勝」という試験ではなく、上位3割しか合格できないかなり狭き門であったようですが……。

堀江 ネット記事によると、筑波大のキャンパスは茨城県・つくば市なので、長時間の通学で問題が見込まれるだけでなく、なかなかご公務もできないのでは、あるいは人生の先輩であるほかの宮さま方の立ち居振る舞いから学んでいくという「帝王教育」も遅れてしまうのではないか、など批判的な論調ばかりが目立つ気がします。

――明治初期をのぞいて、皇族の方々に「進学の自由」のようなものはなかったのでしょうか?

堀江 そうですね……、昭和初期の話なのですが、東大法学部への入学を公言した「宮さま」の受験トラブルが思い出されますね。戦前日本では男性皇族は、成人後に職業軍人になることが義務付けられていたといいましたけれど、そのルートを何らかの理由で辿らない方もいらっしゃったわけです。

 昭和10年(1935年)、当時すでに狭き門として知られた東大法学部合格を目指した久邇宮邦彦王の第3王子、邦英王という方がいらっしゃいます。 

 正確には東大受験の前の時期にはすでに邦英王は皇籍離脱し、東伏見伯爵を名乗るようになっておられたので、華族ではあるが、皇族ではないとみることはできます。しかし、当時の記録を見ると、「臣籍降下」した元・皇族も基本的に皇族として扱われていたことがわかるので、今回もその例にならって伯爵のことは邦英王とお呼びすることにします。

 邦英王は学習院中等科在学時代から、東京大法学部を志望していると公言していました。当時、大学への進学はかなり限定されていましたが、それでも東大法学部は大人気で、受験者数に対し、合格者数が大幅に低い難関だったのです。

――悠仁親王とはちがって、公言なんですね。世間はどのような反応を見せましたか?

堀江 意外かもしれませんが、すでに受験戦争が存在した時代なのに、邦英王の進学の野心は、当時はむしろ「美談」として受け取られていたのです。

 「東京朝日新聞」など新聞各紙の論調は基本的にそれでした。少なくとも悠仁親王のときのように「全てに恵まれた皇族が、私たち庶民の進学のライバルになってくる」というネガティブな見方はされなかったようですね。

――次回につづきます。

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2025/01/11 17:00
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