母の遺言でわかった、驚くべき事実――母の死でほどけた「呪縛」
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
目次
・施設に入ってからも怒りをぶつけてくる母
・遺言でわかった、驚くべき事実
・突然、精神科の閉鎖病棟に入院
・「できそこない」と言われたのも……
施設に入ってからも怒りをぶつけてくる母
若宮由里子さん(仮名・57)は、昔から自分のことを「できそこない」とののしっていた母、ミヨ子さんが難病「脊髄小脳変性症」を発症してからは、隣に住んで介護をしていた。
体の動きが衰え、車いすから落ちて大けがをしたミヨ子さんは、施設に入ってからも若宮さんに怒りをぶつけていたが、特養に移ると急激に気力体力が萎えた。
亡くなったのは、若宮さんが激務の職場を辞めたばかりのころ。「母は今なら私に迷惑をかけないで済むと思ったのでは」と、若宮さんが母を思いやる心境になったのには理由があった。
(前編はこちら)
遺言でわかった、驚くべき事実
ミヨ子さんが亡くなる前日のことだ。
「親戚を連れて母のところに行くと、意識のない母が笑っていて、しかも私のことを目で追っているんです。弟や妹が来たときには笑っていませんでした。親戚には『由里ちゃんに笑顔を見せたかったんじゃないの?』『由里ちゃんのこと、許してくれたんじゃない?』と言われました。母はずっと私が母をだまして施設に入れたと怒っていましたから」
家に帰してあげればよかった、とは思う。しかし、脊髄小脳変性症が進行した母が自宅で暮らせるはずはなかった。母の意に背いて施設に入れ、そこで最期を迎えることにはなったが、それでも母の介護を何年もやってきた。やれるだけのことはやったのだ。
「そもそも私が何かしてあげようとしても拒否していましたから、それ以上のことをしてあげるのは難しかった。いろんなところに連れていってあげても、すべて忘れていましたから、母が満足することはなかったと思います」
そしてミヨ子さんの死後、きょうだいで遺言を確認したところ、驚くべき事実がわかった。
「母からは『遺言を仏壇に置いているので、私が死んだら読んでね』と言われていました。母が亡くなって仏壇を確認すると、私と妹、弟の名前を書いた書類が出てきました。遺産といっても大したことはないのですが、それでもかわいがっていた弟に一番多く渡すだろうと思っていました。ところが、私が一番多かったんです」
突然、精神科の閉鎖病棟に入院
「実は、私は小学生のころ、拒食症になったんです」
若宮さんは、突然母との確執を語りはじめた。
「母の作る食事がイヤで、ご飯が食べられなくなったんです。それでも、中学生になるころにはだいぶ回復して、食べられるようになっていたんですが、中1の夏休みに無理やり精神科に連れて行かれました。『娘がおかしいんです!』と医師に訴え、私はそのまま閉鎖病棟に入院させられました」
時代のせいか、その病院に問題があったのか……精神科病棟の環境は劣悪だった。3食、丼ご飯を出されて、食べることを強制された。
「『そんなに食べられない』と言うと、手足を縛られ、口に漏斗(じょうご)みたいなものを入れられて、胃まで管を入れられて、無理やり流動食を食べさせられたんです」
もともと好きではなかったが、これで母への拒否感は頂点に達した。ミヨ子さんを恨んだ。
「さらに、母は拒食症の本を買ってきて、妹に見せて『由里子はできそこないだ』と言いました。妹は母のことが大好きでしたから、このことで私と妹の関係もギクシャクし出したんです」
そんな思いをしながら、なぜ若宮さんは最後まで母を見捨てなかったのか――? 母から逃げてもよかったのに。
そんな疑問を口にすると、「そんなものですよ。『お母さーん』みたいな感じにはなれなかったけれど。介護できてよかったと思います。やれていなかったら、後悔したでしょうし」と淡々と答えた。
ミヨ子さんとケンカになると、「私はできそこないだからね」と由里子さんが自虐的に言う。するとミヨ子さんは「本当にそうだ」と返す。「お前の世話になってなんかいない」とまで言われたと苦笑する。
そして、「それくらい気が強くないと、“あの父”とは暮らせなかったんだろう」とも思いやる。
「できそこない」と言われたのも……
「今思うと、父は発達障害だったんだろうと思います。子ども心にも、父はちょっとおかしいんじゃないかと思っていました。父は母の言うことが理解できず、それでケンカになって暴力をふるっていたのではないかと思います」
父の暴力がはじまると、由里子さんが近所に助けを求めに走ることもしばしばだった。それほどのDVを受けながら、ミヨ子さんは食料品店を営み、子どもたちを私立の学校に通わせた。
ミヨ子さんから「できそこない」と言われたのも、「私もかわいい子じゃなかったんでしょう」と振り返る。
「私は子どもたちのことがすごく大切です。母にも、そんなふうに育ててほしかったなとは思います」
やることはやったと言う若宮さん。母を見送った今の楽しみは友人たちとのおしゃべりと、趣味のフラダンスだ。全国大会にも出場するという強豪チームなのだという。
「引きこもっていた長男は、3年前にはたまたま吸入器を持っていてタイミング悪く入隊できなかった自衛隊に幹部候補生として入ることができました。若い同期の子たちともうまくやれているようで、あのときに縁がなくてよかったんだと思います。次男は海外で働いていて、婚約者もいる。子どもたちを応援するためにも、老後のためにももう少しがんばって働かないといけませんね」
母の呪縛は、ほどけた。いや、若宮さんが自らほどいたのだ。