コラム
【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!

昭和天皇が行った「女官=天皇の側室」改革とは? 背景に「正妻」の子ではない悲しみ

2024/08/24 17:00
堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
1971年、昭和天皇と香淳皇后(C)GettyImages

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!  

目次

女官にも身分格差! 平民出身は公家出身より格が低かった
昭和天皇の行った女官の改革とは?
「女官」という呼称をなくした秋篠宮家

女官にも身分格差! 平民出身は公家出身より格が低い

――前回は昭和時代以前の女官がたは、若くして独身で宮中にあがり、その後は明確な定年もなく、亡くなるか、老いて働けなくなるまでは皇室にご奉公しつづけるのが通例というお話をうかがいました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) ただ、必ずしも辞められないわけではないのです。幕末、江戸城の無血開城に尽力した功績から、明治天皇にも影響力が強かった山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)や、当時の京都府知事・槇村正直からの強い推薦で、京都の裕福な商人の家に生まれ、高い学才を評価されて、明治天皇の后・美子皇后つきの女官となった岸田俊子さんという方がおられます。

 天才少女だった岸田さんは明治12年、15歳の若さで、明治天皇の美子皇后の「文事御用掛」――つまり、文学の師範のひとりとしてお仕えすることになり、俊子さんの言葉でいうと「孟子の御進講」などで評価を得ていたそうです。しかし、2年もたたぬ間に病気を理由に女官を退官していますね。後には「公家の娘たちばかりが同僚で、旧弊な職場環境が私には合わない(要約)」などと辞職の本当の理由を語っています。

――明治時代の女官は、働く女性としてもっとも高い賃金が約束されていたと聞きましたが……。

堀江 しかし俊子さんは「お金だけを目的にして、人間は働いていてもよいのか」という思いを女官という職に抱いてしまったようで、たとえば彼女のように公家の娘などではない平民出身の女性が女官になっても、公家出身の高級女官よりも格が低い女嬬(にょじゅ)という扱いしか受けられないのですね。

 現在の宮中でも、女嬬と呼ばれる職種の方々は、あくまで皇族がたの「側近」の女官がたとは異なり、「メイド」「召使い」という言葉からわれわれが連想するような仕事を担当なさっています。現代でも極端な話、床になにかこぼすと、それを雑巾で拭くのは女官の仕事ではなく、女嬬の仕事なので、女嬬が来るまで床は濡れたまま……というようなことがあるのだそうで。

 現代ですらそういうわけですから、明治時代では女官の中の身分格差も深刻だったといえます。そういう部分も岸田さんには耐え難かったようですね。さらに岸田さんは、女官の定年がハッキリしていない生涯奉公であることもイヤだったようです。

昭和天皇の行った女官の改革とは?

――定年問題ですか。先日、雅子さまに長年お仕えなさった岡山いちさんが勇退なさったのが77歳という高齢だったのを見て、少し驚きました。40代で女官になられたようなのですが……。

堀江 岸田さんは、女官に明確な定年制を導入するべきだとか、若い女性たちが、天皇のお手つきでない場合でさえ、生涯を皇居内に寝泊まりし、世間から隔離されて奉仕しつづけるという風習を改め、自宅からの通勤制にすべきだという提案を論文内でしています。

 面白いことに、それから数十年後にあたる敗戦後、GHQから当時6,000人以上もいた宮内庁の職員数の削減をもちかけられた昭和天皇と側近は、昭和20年から翌年にかけ、職員数の3分の2をカット。結果的に2,000人程度になるまで、人員削減に成功しました。

 しかし、昭和天皇の母宮で、大正天皇の皇后だった節子皇太后(当時)が女官の人員削減には大反対で、女官の人数自体は保たれたものの、戦後に新規採用される上級女官は未亡人や、子育てが一段落した中年以降の女性が「通勤」するという形に限定されるようになったのです。

 まぁ、昭和天皇が、明治中期に盛んに自由主義の評論家として活動していた岸田俊子さんの論文を目にした、もしくはそれに影響されたという具体的な証拠はないのですが、岸田さんによる女官通勤制度の要望と、昭和天皇の改革内容が被っているのは興味深いのですよね。

――昭和天皇が中年以降の女性だけを、天皇皇后両陛下のお側に仕える女官にすると限定した背景にあったものは?

堀江 それ以前の女官が若くして、しかも独身のまま宮中に入り、その後も人生の大部分を宮中で過ごしたというのは、天皇の側室候補になるかもしれないという可能性が考慮されていたのです。

 しかも出身階級は公家中心で男爵家、子爵家などの姫君が多かったというのは、仮に大正天皇の生母である柳原愛子(やなぎわら・なるこ)典侍(てんじ、高級女官の称号のひとつ)のように天皇の側室となり、天皇との間に男子を授かって、その皇子が次の天皇になったような場合、その女官の出身家は「準皇族」の扱いを受けることになったから。そうした待遇の変化にも、品格をもって耐えうる人々であろうということで、身分が限定されていたのだと考えられます。

 昭和天皇は、そうした女官任命の原則のほとんどを戦後に排除し、名実ともに皇室でも民間同様に、一夫多妻制とその温床になる体制自体を廃止すると宣言なさったのでした。この背景にあるのは、昭和天皇にとってはご両親にあたる大正天皇と節子皇后がそれぞれ、自分が「正妻」の子どもではないことに気づいてしまい、冷遇される実母を見て、ショックや悲しみを覚えた経験があったからだとされています。

 しかしこの時、一夫多妻制を廃しつつ、天皇家の男系相続という伝統だけは維持するという選択をなさったので、皇太子妃、もしくは皇后となる女性のプレッシャーは凄まじいものになった……という現代につながる問題が生まれてくることになりました。

「女官」という呼称をなくした秋篠宮家

――戦後日本の女官制度の改革は、想像以上に深い問題を含んでいたのですね。

堀江 とくに近代以降、ヨーロッパの王室ではどんな形でも一夫多妻制は否定されていますが、後継者は「男子に限る」というわけでもないので、「男子に限る」という日本の皇室よりはお妃さまの負担は大きくないのでしょう。一方、日本では皇族の方々が養子を取ることも禁止されてしまっています。

 ただ、令和時代の皇嗣家――つまり秋篠宮家が「なぜ職員の女性は女官長にはなれても、侍従長になれないのか?」という観点から、「女官」という呼称をなくし、男女ともに「宮務官」にしたという注目すべき改革を行っているため、さほど遠くはない未来に、天皇家の男系相続の原則に何らかの変化があるのではないか……と私は見ています。

 それは「女帝」誕生というような劇的変化ではないかもしれませんが、現在、皇族の方々は養子をとることが法的には認められていないのですけれど、旧皇族の家に生まれた男性を養子としてお迎えするなど、段階的な養子制度の復活はありうる、容認されうることになったりするのではないでしょうか。もちろん、これは私論ですが、今後の変化が注目されるのです。

堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

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最終更新:2024/08/24 17:52
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