杉田水脈氏は“オジサン”の操り人形である――「ともかく目立つ」「弱い者を叩く」政治家としての処世術が限界のワケ
杉田氏は過去に非公開の党の会議で、女性への性暴力をめぐる相談事業に関し、「女性はいくらでもウソをつける」と発言して、問題になったことがある。杉田氏にもお嬢さんがいて、性暴力に遭う可能性がまったくないわけではないのに、なぜこんなことが言えるかというと、“オジサン”の機嫌を取るために発言することが習い性になっているからのように思う。
個人的な話をして恐縮だが、私は過去、ゴリゴリの男尊女卑企業に勤務しており、そこには「若い女性に、若くない女性の悪口を言わせたがる“オジサン”」が存在した。例えば、若い女性社員が、独身の先輩女性社員について「ああいうふうにはなりたくないです」などと言うと、手を叩いて喜ぶ“オジサン”がいたのである。彼らは、自身への糾弾を避けるため、自ら若くない女性の悪口を言うことはないが、若い女性に代弁させて「そうだそうだ!」と同調し、溜飲を下げていたわけだ。
多様性の時代といわれる昨今。しかし、それはネット上、もしくは都市部の話であり、ちょっと都会を離れたら、「同性愛者を受け入れたくない」「未婚者や子どものいない者は、人として何かが欠けている」と思っている“オジサン”は確実に一定数いるだろう。これは、自身の優位性を脅かす女性や少数派台頭を疎ましく思うからだろうが、多くの“オジサン”は、自分の信用に関わるため、それを表立って口に出せない――そんな彼らの代弁者が、まさに杉田氏だったのではないか。
支持団体がつけば、選挙に当選しやすくなる。当選回数が増えれば、要職に就くことができる。総務大臣政務官となった杉田氏の“オジサン”を味方につける作戦は、成功だったといえ、ある意味、彼女はとても政治家向きなのだろう。しかし、この“オジサン”ウケする「ともかく目立つ」「弱い立場の者を叩く」作戦には限界がある。責任あるポジションに就くと、「人権感覚に問題がある」とみなされ、このやり方が通用しなくなるのだ。
12月6日の参院予算委員会で、杉田氏は「私の過去の発言などに対する厳しいご指摘、ご批判について重く受け止めております。傷つかれた方々に謝罪し、そうした表現を取り消します」と述べた。
加えて、杉田氏に重く受け止めてほしいのは、“オジサン”にウケるための処世術として、女性や少数派の悪口を言っていたとしも、こういう大事な時に“オジサン”は彼女を守ってくれないことだ。綺麗ごとでは政治の世界を渡っていけないことくらいは承知しているが、彼女が“オジサン”の操り人形になった揚げ句、使い捨てられませんようにと思わずにいられない。