ジャニー喜多川さんの青春の地「高野山米国別院」、その父はエンターテインメントに「頭が切れる人だった」【命日に偲ぶ】
日系人というのは、戦前・戦中・戦後を通じて人種差別の対象でした。私も40年前にロサンゼルスに来たときに、やっぱり差別を受けました。そういうこともあったので、日系人は戦前〜終戦後、自分たちの文化を外に発信することができなかったんです。
例えば日本の空手、柔道、剣道で「試合をしましょう」「会場を借りましょう」となっても、「日本人には貸さないよ」と言われる。そういうことが続きました。そこで、高野山はどうしたかというと、多目的ホールを造ろうと。試合をやったり、日本の浪花節や三味線のお師匠さんが来たときに披露できるようなステージもあるホールを。
今、ここの高野山ホールのキャパシティは600人です。ステージがあって、その奥にお堂があります。お堂の前の戸板をパタパタと閉じると、お堂の中は見えない。このステージを使って、例えば浪曲や三味線や歌舞伎などもやっていた。ジャニーさんは、そういうショーがあるときに、ステージボーイとして大道具を出したり、小道具を渡したり、幕を閉めたり、ライティングをしたり、マイクロフォンをセッティングしたりしていました。
ジャニー喜多川さんにはお父様の「人を楽します」血が流れていた
その後、ジャニーさんは日本に帰って、テレビ界に進出していくことになるんですけれども。おそらくジャニーさんの血の中には、お父さまのそういう「人を楽します」とか「人を喜ばす」という、その血がそのまま流れていたんでしょう。
また、ボーイスカウトを作ったり水兵さんを招待するくらい、お父さまは若い人たちを集めるのが得意だった。やっぱり影響されていたのかもしれないですね。やはり「血」と言いますか、「DNA」だと思います。
「別院百周年記念誌」には、フォーリーブスが訪問した記録も残っています。美 少年、Travis Japanと訪問が今でも続いているのは、喜多川ファミリーの心の中に、アメリカに対する感謝の気持ちと、米国別院への懐かしい記憶があるからだろうと思います。ジャニー氏、メリー女史とも、アメリカにおける数々の経験や、父親との高野山別院との関係を懐かしく感じていらしたことは確かでしょう。