皇室が揺れた、プリンセスの結婚延期と「破談」! 「巨額の一時金」と3人のお相手候補の行方は?
――ちなみに和子内親王には、次のお相手候補はいなかったのですか?
堀江 内親王の“ホームステイ”が終わるころでしょうか、49年(昭和24年)には読売新聞上に、和子内親王と京都の東本願寺の大谷光紹(おおたに・こうしょう)さんとの縁談が内定したという記事が載ります。しかし、これは後に「誤報」として取り消されることになりました。和子内親王が「すぐに取り消して」と強い意思を示されたそうです。
大谷家は乗り気だったそうですし、新聞に記事が出たという時点で、かなりのところまで話は詰められていたことは想像できるのですが、和子内親王が最終的に大谷さんとの結婚をお望みにならなかったそう。これが2人目のお相手候補でした。
――うーん、それは複雑な事情がありそうですね。
堀江 結局、その翌年、和子内親王のご結婚相手は公家の中でも最高の家格を誇る「五摂家」のひとつ、鷹司家の御曹司である平通(としみち)さんで決定しました。そして、50年(昭和25年)1月下旬には世間に情報公開もなされました。
しかし、鷹司平通さんは当時、交通博物館にお勤めで、メガネにスーツの“普通”のサラリーマン。そのお住まいは千駄ヶ谷の一軒家ですが、「カキ根も門もない」、「車一台やっと通れる路地の突き当り」に位置する“小さな家”で、「モルタル塗り二階家」だったそうです。59年(昭和34年)の「週刊読売」(読売新聞社)4月5日号の記事に詳しく書かれていますね。
――旧華族とはいえ、当時はすでに民間人であり、サラリーマンをしている方のお住まいをかなり詳細に記してしまっていますね(笑)。
堀江 皇族の結婚相手にプライバシーはないというか、そういう報道形式がこの頃すでに確立しているのは興味深いですよね。現在の小室さんが次々と過去を暴かれているのと同じ空気を感じなくもないですが……。
ちなみに、和子内親王の結婚に際し、「皇室経済法」で支給された一時金は489万5千円でした。7人家族の東久邇家に支給された総額が675万円ですから、和子内親王が天皇の皇女であること、そしてインフレが起きていた時期とはいえ、現在の貨幣価値に換算すると、なかなかの巨額といえるでしょう。
――次回に続きます!