「古きよきヤクザの時代」の終わり――引退した神戸山口組幹部が語る“いい話”
今は亡き某指定組織の三次団体幹部の妻だった、待田芳子姐さんが語る極妻の暮らし、ヤクザの実態――。
神戸山口組の奥浦清司元顧問の回想
ワタクシ的には「週刊実話」さん、大スクープですね。神戸山口組の元幹部・奥浦清司元顧問の独占インタビューです。
奥浦元顧問は、「伝説のヤクザ」といわれたボンノ(「煩悩」が語源だそうです)こと菅谷政雄親分から盃をもらい、「最後の博徒」と呼ばれた波谷守之親分から弟のようにかわいがってもらったそうです。
元顧問は、1943年の東大阪生まれで、今の若い人は知らない「ギブミー・チョコレート」をリアルに体験された世代。「ヒロポンも新聞紙に包んで売られていた」と(苦笑)。ご両親はなんと学校教師で、いつも叱られていたそうです。お母さまが40代で亡くなられて不良の道を進むことになりますが、不良仲間と狭い部屋で雑魚寝したりと、「いい思い出ばかり」だそうです。
これは、記者さんの前だからサービスでおっしゃったのかもしれませんが、その時代の話を「いい思い出ばかり」とは、なかなか言えないですよね。誰にも言えないご苦労はあったと思います。あと、19歳からご一緒の奥様は、泊まり込む不良仲間にごはんとたくあんを用意されていたそうで、これも大変だけど、いいお話です。
「波谷親分がいちばん好きやった
ボンノこと菅谷政雄氏は、友達の中国人や台湾人、朝鮮人たちと「国際ギャング団」を結成していました。「親分」と呼ばれることをいやがり、「ボス」と呼ばせていたそうで、のちに三代目山口組傘下で菅谷組を結成します。
奥浦元顧問も菅谷組の所属でしたが、「ボス」は1977年に絶縁処分を受けてしまいます。当時菅谷組の舎弟だった波谷組長は、奥浦元顧問に「辛抱するしかない」と言って慰めてくれたそうです。
「波谷親分が、いちばん好きやった」とインタビューにあって、「ああやっぱりそうなんだ」としみじみしましたね。波谷親分は、一審で死刑を言い渡されていた蒔絵職人さんの裁判を応援したり、「いいお話」が多いんです。
この裁判の経緯については、『蒔絵職人・霜上則男の冤罪―山中温泉殺人事件』(正延哲士/東京法経学院出版、1985年)という本にもなっています。波谷親分と霜上さんは、たまたま同じ拘置所だっただけなんですが、親分が「死刑を戦っている重み」を知って応援してあげたのだそうです。