毒母の介護、最後は“意地”だった。「娘がいて“便利で”よかったわ」「つまらない人生でした」母の辛辣な言葉に、私は……
——当時、どのような心境だったか覚えていますか?
鳥居 もう、目の前のことしかできなくなるんです。この割れたガラスを片付ける、失禁したパンツを洗う、食べさせるものを作るとか。目の前のハエを追うような毎日で、「この場を切り上げて早く家に帰りたい」とばかり思ってました。帰宅しても、山のような家事が待っているんですけどね。全てが中途半端にしかできなくて、フラストレーションがどんどんたまり、体力だけでなくメンタルも削られていきました。
——介護の中で、特に印象に残っている、つらかった経験はなんでしょうか?
鳥居 これは老人ホームに入ってからの話ですが、母に毎日毎日「つまんない」と愚痴られるのがつらかった。母の病気は、嚥下がしづらくなる症状もあったため、食べていてもすぐもどしそうになる。老化によって、味覚も鈍くなっていたのか、食事の楽しみがなくなってしまいました。それに老人ホームは、どこの誰かわからない人たちと集団行動しなくちゃいけないというストレスもありますから、「つまんない」のは当然なんですよ。
そんな母の楽しみを補うのは、私の役割でした。昔から母は、自分の楽しみを私に委ね、私は母を喜ばせるために、いろんな話をしなければいけなかった。それをしないと、母が機嫌を損ねてしまい、爆発するから。この頃の母は、私にさらに楽しみを求め、感情をぶつけてくるようになっていました。
毎日「今日は来るの?」と電話がかかってきて、「◯時頃行くよ」と答える。そしたら「もう出た?」と電話が入り、「今向かってる」と言っても、また「まだ着かないの?」とお叱りの電話が鳴り響く……。「今、車に乗ってんだよ!!」って叫びたかったですよ。そういえば、母にカメラを回しながら「どんな人生だったか?」を聞いたことがあったんですけど、「つまらない人生でした」と言っていて……「本当にそうですよね、自分で楽しもうとしなかったんだもん」と、心の中で思いました。
——それでも介護を投げ出さなかった理由はなんでしょう?
鳥居 私は「お願いだから、今日死んでくれ」って散々思っていましたし、当時仕事をしていたメディアでも言ってましたけどね(笑)。これは、毒母を持つ娘ならではの感覚かもしれませんが、母に認めてほしかったんです。母は「娘がいて“便利で”よかったわ」とは言うんですが、私は“自分の存在”を認めてほしかった。どこまでやったら褒めてくれるんだろうと、最後のほうは意地になって介護していました。でも結局、最後まで認めてはもらえませんでした。
介護をする人の心って、「親に対する恩」と「親に対する怨」の間で揺れ動いていると思うんですよ。「恩」を感じすぎても、「怨」を感じすぎても、心が疲弊してしまう。親に対して「今すぐ死んでしまえ!」と思っても、次の瞬間に「かわいそうだから、これをやってあげよう」と動く……そんなふうに「恩」と「怨」の心境を行ったり来たりすることが、介護なのだと感じています。
(後編につづく)
鳥居りんこ(とりい・りんこ)
エッセイスト、教育・子育てアドバイザー、受験カウンセラー、介護アドバイザー。『偏差値30からの中学受験』シリーズ(学研)など、中学受験の著書で広く知られる一方、近年は実体験を元に、介護問題へのアドバイスを行っている。『鳥居りんこの親の介護は知らなきゃバカ見ることだらけ』『親の介護をはじめたらお金の話で泣き見てばかり』『親の介護をはじめる人へ伝えておきたい10のこと』(いずれも学研プラス)など著書多数。
湘南オバちゃんクラブ