『君と世界が終わる日に』は、『ウォーキング・デッド』の劣化コピーに? ゾンビ映画ウォッチャーが「しょぼい理由」を考察
伊東氏がまず気になったのは、非日常的な設定を重ねているところ。“ゾンビ発生”に“トンネル崩落事故”と、非日常的な展開が続いたことで、「シラけてしまった」という。
「非日常的な描写はゾンビだけに抑えて、ほかはリアルに作っていくというのがゾンビモノのセオリー。なので、ちょっとヘタな感じがしてしまうんです。あの崩落事故が何かの伏線になっていて、今後回収してくれればいいのですが、もし響が、『混乱した街の状態を知らない』という設定のためだけにあのシーンを作ったのなら、強引すぎると思います」
また、ゾンビが登場する終末モノは、「人間に代わってゾンビが街を闊歩しているなど、“現代社会の崩壊”が描かれるところに面白さがある」というが、『キミセカ』には、ゾンビ発生後のパニックに陥った街の状況の描写がないと、伊東氏は指摘する。
「ゾンビがたくさんいるというカットがないんです。夜になると活動するというゾンビの設定の影響だと思うのですが、第1話後半では、舞台が夜の学校となり、廊下や体育館など、狭い場所にわーっとゾンビがいる描写があった一方、日中の街中を引きのカットで……というのはなかった。また、例えば、食べられた死体があちこちに転がっているとか、そういう日中の描写もありませんでした。だから、『世界が変わった』という感じが、あまりしてこないんですよね」
加えて、第1話にあった、響が合流した生存者たちに手料理を振る舞うという団欒シーンには、「世間で何が起こっているかわからない状況で、ちょっとのんきすぎやしないか? と思ってしまいました」と伊東氏は目を光らせる。
このように「世界が混乱に陥っている」というシーンがないことが、視聴者に「しょぼい」と感じさせた要因ではないかと伊東氏。なおSNSでは、「ゾンビが日本人だから迫力がない」など、特殊メイク以前の話として、ゾンビ役のビジュアル面の問題を指摘する声も目立ったが……。
「今から50年以上前に作られた映画『ナイト・オブ・ザ・ リビング・デッド』(1968年)は、残酷描写は強烈でしたが、メイクに関しては、ただ白塗りしてるだけで、手の込んだものではなかった。それでもちゃんと怖くて、面白ものができるのですから、ビジュアルがしょぼいというのは、関係なくはないにしても、重要ではないと思います。やはり物語の作り込みが影響してるのではないでしょうか」