「セウォル号沈没事故」から6年――韓国映画『君の誕生日』が描く、遺族たちの“闘い”と“悲しみ”の現在地
最愛の息子を突然失った母・スンナムは、スホの「不在」を受け入れることができず、スホの死に正面から向き合おうとしない。スホの新しい服を買い込み、突然灯る玄関のライトにスホの帰還を感じてしまうスンナムは、息子が今にもドアを開けて帰ってくるように思えて仕方がないのだ。
彼女はスホの不在を受け入れている人々に対して激しい拒否反応を示し、それは時に、夫のジョンイルだけでなく、娘のイェソルにも向けられる。こうしたスンナムの姿は、スホの不在による悲しみの中に、自分自身を閉じ込めているようにも見える。彼女は不在を受け入れられないのではなく、その不在を認めることを怖がっているのだ。不在を認め、悲しみを乗り越える準備ができていないスンナムの姿は、遺族らに共通する「根源的な悲しみ」を象徴しているといえよう。
一方、妹のイェソルは、幼いながらもスホの不在が何を意味するのかをよく知っている。イェソルにとってスホの死は、湯船にも干潟にも入ることができないほどの大きなトラウマとなっているが、同時に、スホの誕生日パーティーを素直に楽しみにしている。母親以外の人間たちとの関わりを通して、スホを「現前する不在」としてすでに受け入れているのだ。その意味でイェソルは、周囲の人々と触れ合おうとせず心を閉じてしまっている母・スンナムとは異なる形で、悲しみに向き合っている存在である。
そして父・ジョンイルは、大事なときに家族と共にいられなかったことへの罪悪感に囚われ、スホがどんな子だったかも話せないほどに、息子を知らない自分を責める。だが、事故以前のまま残されたスホの部屋に足を踏み入れたジョンイルは、涙を流しながらスホの痕跡を一つひとつ確かめ、「現前する不在」を見いだしていく。だからこそジョンイルは、果たせなかったスホのベトナム旅行をかなえるために、彼の身代わりとなるパスポートを握りしめて入管に出向き、2人の思い出である釣りにも出かけるのだ。
「現前する不在」としてのスホを、確かにそこにいるスホを確信したジョンイルは、「スホが来るから」とスンナムを説得して誕生日パーティーに導く。ジョンイルは、スンナムともイェソルとも違い、悲しみに打ち勝つための道を父として模索した。映画の中でのジョンイルの設定は、遺族の中でも特殊な事情のように思えるかもしれないが、彼の立場は韓国国民全体の象徴とも考えられる。そんな彼の行動と努力は、事故に対して韓国社会がどうあるべきかという問題に対する、本作のメッセージとも受け取れるだろう。