『ザ・ノンフィクション』認知症の妻の老老介護、最期の日々「おかえり お母さん~その後の『ぼけますから、よろしくお願いします。』~」
今回は、認知症を発症した妻の老々介護という、どこまでも暗くなってしまいそうなテーマながら、どこかで「明るさ」を感じさせる映像になっている。それは良則、文子の夫婦二人とも、ユーモアを大切にしているからのように感じた。
文子は17年の正月に「ぼけますからよろしくお願いします」と直子に声をかけるし、良則は危篤状態になった文子の枕元で、「(呉市が)何かくれるんじゃろう思うよ」と話し、元気になってハンバーグを食べに行こうと呼びかける。この二人にはユーモアのセンスがある。
暗くなりそうな状況をユーモアで逃がしてやる、というのは、生きる知恵だと思う。暗い悩みと正面から向き合い、真面目に、深刻になればいいというものでもない。真面目に、深刻に悩めば悩むほど、そんな自分のことを「(悩みに向き合っていて)立派だ」と思いかねないだろう。しかし、深刻な状況をユーモアで「いなす」という選択肢もある。
そんな良則と文子のユーモアのセンスは娘、直子の映像に引き継がれていると感じた。
100歳にして妻子を守る良則の姿
妻、文子が入院中に、自宅に戻ってからも介護できるよう、100歳前にしてトレーニング器具で体力づくりに励み、娘、直子が仕事を辞めて介護をしようかと話すと、「あんたは働ける間は働いてもええよ、親のことをそがいに心配せんでええよ」と返す良則はカッコよかった。
昨今、「男だってつらい」「親だってつらい」をはじめ、「生きるのがつらい」という意見を特にネットの記事やトレンドワードで見る。実際、生きていくのは大変だし、弱音を吐かねば押し潰される、というときに弱音で逃がしてやるのは大切なことだ。
だが、それが「癖」「習慣」になるのはまずいのではないかと思う。弱音を習慣的に見れば見るほど、「弱っている状態」が自分の標準、基準になっていってしまって、頑張れなくなる気がする。なので、良則の、100歳にして弱音を吐かず、妻と子どもを守るべく、曲がった背中で奮闘する姿を見て、心に火が付くとともに、こんなふうに生きようとする気概のある大人は今どのくらいいるのだろうと思った。
次週は「ボクのおうちに来ませんか ~モバイルハウスで見る夢~」。車を住めるように改造し、そこを自宅にして夏は涼しい場所、冬は暖かいへ移動する「モバイルハウス」で暮らす若者が増えているという。二人のモバイルハウスで暮らす青年から「自由な生き方」と「快適な暮らし」の間を見つめる。