カルチャー
[サイジョの本棚]
宇佐見りん『推し、燃ゆ』で描かれる、誰かを「推す」ことの不毛さと偶像を尊ぶアイドルファンのリアル
2020/11/29 13:00
ドライブ感のある文体で浮き彫りになるのは、誰かを「推す」という人によっては理解不能な行為の一端だ。「推す」と一口に言っても多種多様で、あかりのように「推しの存在を愛でること自体が幸せ」というタイプもいれば、あかりの友人のように「触れ合えない地上より触れ合える地下」と認知と接触を求める人もいる。
「推し」を巡る、SNSを通じた交流の生ぬるい温かさも、嗜虐的なアンチの揶揄も、誰かを推した経験のある人ならたいてい見覚えのある光景だろう。そんな「推しを推す」人々とその周辺の描写を通じて、一方的で不毛な「推す」という行為から生まれる、「正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がる」ような瞬間が、角度を変えて何度もすくい取られている。
推しに対して、「触れ合いたいとは思わなかった」「有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい」と一定の距離を保っていたあかり。「ステージと客席には、そのへだたり分の優しさがある」と思っていた彼女は、一度だけその「へだたり」を越えかけるものの全力で引き返し、その勢いのまま初めて「推し」抜きの自分自身と対峙する。
全身全霊を傾けていた推しを見つめる力が自らの荒れた心身に向けられた時、彼女が感受した世界は荒涼としたものだ。ヘビーで持て余すような日常生活に、先の見えない未来に、思うままに動かない肉体。不本意でもそれらと死ぬまで一生付き合っていくしかないという現実。それはどんなに絶望に似ていても、しかしやはり希望なのだと私は思う。
(保田夏子)
最終更新:2021/01/12 16:11