勉強しすぎは女の価値を下げる!? 妃殿下、“お嬢様教育”の仰天実態は「高校を寿退学」がステイタス
堀江 当時はご自分でお弁当を持つようなことはなく、侍女がそれらを捧げ持って一緒に通っているし、伊都子さまが学校で授業を受けている時は、控室でその侍女が下校時間までお待ちするという。我々の目には過保護すぎる生徒でいらっしゃいました。
ついでにその弁当も、オカズに焼き魚が入っていると、裏返して食べたりはしないんだそうです。半身は残すんですね。魚を裏返す姿が「せせこましい」からでしょう、きれいに残しちゃう(笑)。彼女にいわせると、それも伊都子さまいわく「厳しいしつけの一貫であった」と。
――食べる物がなくて泣いている庶民もいただろう時代に、やっぱり極めつけのお姫様学校は違いますねぇ。華族女学校というのは女子学習院とはまた別なんですか?
堀江 はい。1906年(明治39年)以降に“合体”していますが、それ以前は別ですね。伊都子様の小学科へのご入学は1888年(明治21年)です。基本的に学習院は上流階級の男子生徒のための学校だったので、上流の女子教育の場として、皇后および宮内省の管轄下に置かれた官立学校として1885年(明治18年)に作られています。
――皇后様の管轄下ってのが、すごいですね。
堀江 そう。同校は、小学科(現在の小学校)と中学科(中学~高校)に分かれていました。教授陣には2024年からの新5千円札の「顔」である津田梅子もいたそうですが、津田梅子の弟子の山川菊栄の言葉によると、華族女学校時代、津田先生は「まるっきり勉強する気がない」生徒ばかり担当させられ、嫌気がさしたそうです(『現代日本記録全集10 明治の女性』内、山川菊栄と原田伴彦の対談より)。
津田梅子は本当に手に鞭を持って(!)授業に臨んでいたのに、拍子抜けしてしまうくらい、生徒の学習意欲がなかったようですね。うんざりした津田先生は約3年で華族女学校を離職、津田義塾を創建するに至ったのでした。
――ビシバシできなかったんですね。この頃のお嬢様って、それほど勉強しないものなんでしょうか(笑)?
堀江 学問への関心が相対的に低いようです。勉強しすぎると、女としての価値が下がるみたいな気風は確実にありました。現在なら非常に問題になるところですが(笑)。学校には行儀作法や、書道などだけは完璧に身につけたレディーばかりが入学してきたようですよ。まぁ、当時の「女のたしなみ」ですよね。
――女は勉強なんかしなくていい、という時代ですか……。勉強しないなら、学校へ行く目的はなんだろうと思ってしまいます。
堀江 授業参観日に、誰かのお母様の目に止まって、お声がかかってご婚約。その時点で途中退学する「寿退学」こそ、華族の姫としての最高のステイタスだと教えられているのです。というわけで、あまり学問習得には熱心ではなく、ぼんやりとして見える生徒さんが多かった様子。とくに数学と外国語の成績が、悲惨なまでに悪い学生が大量にいたそうです。
伊都子さまのご入学は1888年(明治21年)以降だそうですから、津田梅子が教鞭を取っている時期にあたります。伊都子さまの自伝でも津田先生については、まったく触れていませんが、当時はまだ小学科ですから、英語の時間はなかったのかもしれません。
――伊都子さまのご成績は……?
堀江 伊都子さまはフランス語などをお妃教育の過程で猛特訓なさって、外国に行ったときも驚かれるレベルで話せたし、後には赤十字社から「看護学修業証書」まで与えられていますから、ご成績自体も良かったのではと推察されます。
ちなみに名前こそ「華族女学校」なんですけど、平民もしくは士族の女生徒のほうが華族・皇族のお姫様よりも数が多かったってご存じですか?
――ええっ、華族女学校なのに? ……次回に続きます!