[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

不朽の名作『息もできない』が描く、韓国的な「悪口」と「暴力」――“抵抗の物語”としての一面を繙く

2020/10/09 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

“韓国的”な家父長制に抗う「トンパリたち」の最後

 映画は幼い頃に父の暴力によって母と妹を失い、孤独に生きてきたサンフンが、刑期を終えて家に戻ってきた父を前にして憤りを募らせるあたりから始まる。自分の人生を不幸にした元凶である父に対して、恨みしか抱けずに暴力を振るってしまうのはよくわかるが、サンフンは父が異母姉とその息子と一緒に過ごすことさえ我慢ならない。その一方で、かつての面影が見えないほど弱々しくなった父が絶望のあまり自殺しようとすると、必死の形相で病院に担ぎ込み、「死なれては困る」と叫ぶ。

 そんなサンフンの分裂的な態度からは、儒教国家・韓国における父と息子のあまりにも強固な、それ故に不健全とも言える関係性が見え隠れしている。

 儒教には、「父子有親」という父と息子の強力な連帯を訴える概念がある。韓国にはどの家庭にも「族譜」と呼ばれる家系図が存在するのだが、つい最近までそこに女性の名前は記載されず、男系の成員の名のみが連綿とつづられてきた。「家」を重んじる日本とは異なり、韓国では何よりも「血」が大事なため、血が継承される父・息子の関係性しか重要視されない(女性の場合は「出嫁外人」と言って、父系の血の継承ができないものとされ、結婚すれば「嫁ぎ先の人間」として扱われる)。こうして、父と息子の間に特権的な絆を作ることで家父長制を維持してきた韓国だが、その両者の関係が正常に機能しない場合には、サンフン親子のような暴力に依存した服従関係が生まれてしまう。

 サンフンが「シバル チョッカッタ」と罵倒しながら父に暴力を振るい、同時に父を必死で救おうとする様子からは、自らを苦しめる父=家父長制に対する抵抗と、それでも儒教を絶対視する韓国的伝統から逃れられない宿命のようなものを感じずにはいられない。

 そして、そんなサンフンが唯一心を許す相手である友人のマンシクとヨニ、そして甥のヒョンインを思い出してみよう。サンフンは先輩であるマンシクに決して敬語を使わず、マンシクはそんなサンフンに文句を言いながらも温かいなまざしを送る。ヨニは常識で言えばサンフンに敬語を使ってしかるべきであるにもかかわらず、タメ口で話すばかりかサンフンに負けない量の悪口を繰り出し、サンフンはヨニに悪態をつきつつ心を許していく。そしてヒョンインとサンフンの間には、父子の服従的関係性の代わりに純粋な庇護の思いやりのみが介在している。サンフンにとってあらゆる上下(服従)関係は憎むべきものであり、そこから解放された関係性にのみ安らぎを見いだしていることがわかる。


 本作は、社会の底辺に生きる「トンパリ」の物語であると同時に、そんなトンパリたちが、韓国的な家父長制や儒教の伝統に抗う、抵抗の物語として読みうる映画でもあるのだ。サンフンが不在の中で私たちが目にする最後の光景は、彼が愛し、彼を愛する者たちが、血ではないつながりによって「家族」となっていくさまであり、それこそがサンフンが心から望んだ家族の形であったのだろう。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

最終更新:2022/11/01 12:12
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時代は変わったようで変わってないなあ