「お父さん、亡くなったんですか?」知らないご近所の方の一言に「本当に救われた」と娘が思うワケ
“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。徘徊がひどく、毎回警察のお世話になったが、受け入れてくれる施設は見つからず、在宅介護は7年に及んだ。ようやく義徳さんが隣県の特別養護老人ホームに入居できたのは、麻美さんの結婚式の1カ月前だった。
(前回:認知症の父は「まったく怒らず、子どものよう」だと語る娘……「ムカつくけど一緒に過ごす」と決めた思い)
コロナ禍で会えたのは15分だけだった
施設に入った義徳さんのことが心配で、麻美さん家族は高速を利用しても1時間半かかる道のりを毎週面会に通った。
入所してしばらくはまだ笑顔も見られ、家族の顔もわかっていたというが、2〜3カ月たち施設に慣れたころから、徐々に表情も会話もなくなり、施設内を無表情で徘徊するようになった。排泄も自分でできていたのが、おむつに変わった。
「この頃には、家族のこともわからなくなっていたと思います。環境が変わると進行が早くなるとは聞いていましたが、聞きしに勝るものでした。入所して1年たつころには車いすになっていた気がします。そして、あっという間に歩けなくなり、寝たきりになりました。私たち家族が行くと、知らない人が来たと思うのか、『アアアア~!』と泣き叫び、いつも面倒をみてくださる施設の方が来てくれると少し落ち着いていました」
進行していくのが目に見えてわかったので、会いにいくのもつらかった。それでも施設に行って、義徳さんの手を握ったり、家族の写真を見せたりして、一緒の時間を過ごすようにした。
そして、この5月。義徳さんは誤嚥性肺炎で亡くなった。コロナ禍で、義徳さんに会えたのは亡くなる3日前。許されたのは15分だけだった。
「それでも、最期に生きている父に会えて、本当によかったです」