[連載]崔盛旭の『映画で学ぶ、韓国近現代史』

63人の被害者を出した「奴隷事件」――映画『ブリング・ミー・ホーム』が描く“弱者の労働搾取”はなぜ起こったか

2020/09/25 19:00
崔盛旭(チェ・ソンウク)

“服従の関係性”の被害者は「子ども、障害者、女性」

63人の被害者を出した「ありえない事件」――映画『ブリング・ミー・ホーム』が描く弱者の労働搾取はなぜ起こったかの画像3
(c) 2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

 本作の物語もまさに「地域の慣行」を背景にしており、だから誰もが実話ではないかという印象を抱いたのだろう。事件の後、児童・障害者保護の強化や加害者への厳罰化など法律の整備が進められたが、今年の7月にもまた、19年間にわたって労働搾取されてきた知的障害者が発見され、依然として状況は改善されていないことが浮き彫りになった。

 警察の記録を見ると、こうした事件は1948年の韓国建国以来、後を絶たなかったようだ。そして被害者はいつも子どもや障害者、そして女性だった。社会的弱者を意味する「子ども、障害者、女性」に思いを巡らすためには、韓国社会に根付く「服従」の儒教的無意識を再び取り上げなければならないだろう。

 子どもや障害者への暴力については、以前のコラムで取り上げた『トガニ』で、女性に対する差別における儒教の影響については『はちどり』で数百年間韓国社会に根付いてきた儒教思想と「服従」の概念、そしてそれが「家族」という社会の中でどのように立ち現れるかについて、主に「男女」の関係性から述べたが、今回は「年長者と年少者」の面から掘り下げてみたい。

 年齢の差だけで人間の上下関係を決めつけ、服従を正当化する儒教の概念が「長幼有序(長幼序あり)」だ。韓国では初対面の人間同士が互いの生まれた年をまず確認し合う習慣があり、これこそ国民全体が「長幼有序」に囚われている最も明白な証拠だ。どちらのほうが立場が上かをはっきりさせないと話が始まらない。

 つまり、基本的にどちらかがどちらかに「服従」する関係性を決めておかないと、会話すらろくに進まないのだ。日本人には不思議に聞こえるかもしれないが、韓国では家族かどうかに関係なく、赤の他人でも年上ならみんな「형・오빠(お兄さん)」「누나・언니(お姉さん)」であり、そう呼ばないとすぐにケンカになったりする。


 たとえば、日本では電車の優先席に若者が座るのは普通の光景だが、韓国では電車の「敬老席」には若者は絶対に座らない。座ろうものなら年配者から怒鳴られることも日常茶飯事だからだ。敬老席に座る女性を自分より年下だと思い込んだ中年の男が、「席を譲れ」と口論になり暴力まで振るったが、あとから女性のほうが年上だったとわかり、土下座したという呆れる出来事があったほどだ。

 個々の人間性にかかわらず、「年長者は偉いのだから服従しろ」というのが「長幼有序」のゆがんだ無意識の表れなのだ。そして、服従させるための最も手っ取り早い手段が、暴力だ。とりわけ、相手が子どもなら「上下関係」は明らかであり、肉体的にも弱者である彼らであれば抵抗される心配もなく、好き勝手に暴力を振るうこともできる。

 「たとえ自分の子でも殴ってはいけない」という、子どもの人権に関する認識が韓国で本格的に広まったのは、21世紀に入ってからだ。世界的に見ると恥ずかしいほど遅れているが、「長幼有序」の下、何百年も昔から親が子どもを殴る(年長者が年少者を殴る)のは当然とされてきた韓国社会において、その認識の変化ですら大きな一歩である。子どもを暴力で服従させ、人権を蹂躙(じゅうりん)するという本作の事件の背景には、そんな社会を許してきた儒教的無意識があるのではないだろうか。

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